第十一話
電話が鳴っている。
誰がかけてきたのかわからないけれど、私には取ることができない。それにしても、うちの電話はこんな呼び出し音だっただろうか? そもそもこの家に電話なんかあっただろうか? うちに電話があってもかけたいところにないんじゃ仕方がないと言って、父が設置させなかったのではなかったか。もう何日も服を変えていない。もしかすると何か月、何年もかもしれない。窓のない部屋にずっと座ったままでいると、日付の感覚がなくなってしまう。最後に家族の顔を見たのはいつだっただろう? みんなどうして帰ってこないのだろう? もう空襲警報は鳴らなくなったのに。どうして私を置いてどこかに行ってしまったのだろう。電話はまだ鳴っている。誰も出ないのだからあとでかけ直せばいいのに、せっかちな人もいるものだ。一体家族の誰に用事があるのだろう。お父さん、お母さん、お祖母さん、兄さん、兄さんのお嫁さん、それから姉さんもいた。小さい方の兄さんも。みんなどこにいったのだろう。もしかするとわたしにかかってきた電話かもしれない。でも、そんな用がある人がいるのだろうか? 直接家に来てくれればいいのにと思うけれど、もしかすると鍵がかかっていて入れないのかもしれない。私には鍵を開けてあげることもできないから、おあいにくさまだ。私はこの部屋に座っていることしかできない。目の前には小さな杯が置かれ、生米がひとつまみ載っている。この部屋には不思議と鼠一匹来ることもない。この杯を置いたのはお母さんだったろうか、お祖母さんだったろうか。ずいぶん前のことで、もうわからなくなってしまった。畳の上に座布団を敷いて、その上に座らされている。もうずっと前にあつらえてもらった私専用の小さな座布団だ。あの頃はまだそれだけの余裕があったのだろう。電話がまだ鳴っている。この家にはないはずなのに、一体どこの誰がかけてきているのだろうか。ぼく宛だろうか。わたしにかかってきたのかもしれない。いや、私かもしれない。動けないから出られませんよと教えてあげたいけれど、それができない。やっぱり父宛だろうか。仕事の電話かもしれない。羽振りがよかったのはいつまでだったか、それもいつか盛り返すだろうと言っていたけれど一体どうなったのだろう。いや、やっぱり私にかけてきているのかもしれない。この家にいるのが私ひとりだと知っている誰かが、私に大事な用事があるのかもしれない。どんな用事だろう? 仕事のことだろうか? 個人のパソコンのパスワードは総務に聞けばわかるはずだ。そうじゃなくて学校のことかもしれない。昨日理科室の鍵を返すのを忘れた気がする。困った。早く電話に出ないとならないのに体が動かない。いつから体が動かなくなったんだっけ。そもそも私は一体誰なんだろう。ここに座って延々と考え事をしていることしかできないのは誰だっけ? 私。娘がひとりいる。夫とは離婚して、実家に戻ってきた。動物は飼ってみたかったけど飼ったことがない。商社でタイピストをしている。いや、電話交換手をしている。運転手をしている。いや、働いたことがない。まだ小さな子どもだから。わたしはまだちいさなこどもで、めんどうをみてくれたおかあさんやねえさんはわたしをおいていくときないていた。なくんだったらつれていってくれればいいのに。こんなおおきいものにしなければよかったとおかあさんがいっていた。わたしはちいさなこどもなのに。へんなの。
「ねぇちょっと美苗、どうしたのよ」
母の声が聞こえて、私は目を覚ました。
おかしな夢を見ていたらしい。いつの間にか朝になっていて、私はもう着替えて食卓についている。目の前には綾子さんが作った朝食が並べられ、母が私の顔を覗き込んでいる。
「ここのところ忙しかったからね。でも忌引きは今日まででしょ。そんなにボンヤリで、仕事に戻れるの?」
「体調が悪かったら、明日もお休みした方がいいんじゃない?」
綾子さんが私の前にアイスコーヒーの入ったグラスを置いた。「まぁ急に休暇をとるってなかなか難しいものだと思うけど、体には代えられないからね」
「親の葬儀の後だからなぁ。俺が上司だったら休んでも仕方ないと思うかな」
トーストをかじっていた兄が口を挟む。
「その辺ひとによるわね。昔いた課長はうるさかったなぁ~、もう二十年くらい昔の話だけど、嫌いすぎて未だに覚えてるわ」
母が言う。「そもそも有給余ってる?」と兄が私に尋ねる。
「おはよう」と言いながら、父がダイニングに入ってくる。
「ちょっと寝すぎたな」
「お父さんも疲れてるんでしょ。休みの日に庭いじりしすぎよ」
「庭だってかなり広いもの。やっぱり植木屋さんに入ってもらった方がいいと思うの」
「そうだよなぁ」
みんなの話を聞きながら、祖母がにこにことうなずいている。私の隣に座っている桃花に「おはよ、しいちゃん」と舌足らずな声で挨拶をする。
「もー! ももかだよ! おばあちゃん!」桃花が不満そうな声を上げる。「しいちゃんは、あのこでしょ!」と、手を振ってどこかを示す。
目が覚めた。
とても暗いところにいる。
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