第十話
冷たい沈黙が満ちた部屋に、突然「お父さんは?」という声が響いた。
母だった。
「お父さんは? 圭一、何かしたの?」
「してないよ」
「じゃあ、なんでお父さん、あんなところにいたのよ」母はそう言いながら一歩前に踏み出す。「お父さんが滅多なことするはずないでしょ。あんたか、綾子さんが何かしたんじゃないの?」
「綾子はそんなことしないって」
「わからないでしょ! お父さんはあの部屋のことを何とかしようとしてたの、それが綾子さんの気に障ったんじゃないの?」
「あのなぁ、おかしなこと言わないでくれる?」
兄がベッドから立ち上がる。
「だったら何でお父さん、あんな時間にあそこに入ったのよ。もっと日が昇ってからの方が明るくなるのに」
「知らないよ。人目を避けたかったんじゃないの?」
「そんなの、昼間だってどうにかなるでしょ! おかしいのよ、たったひとりでなんて――」
おかあさん。
ふたりの口論に紛れて、幼い声が私の耳に届いた。
それが罠かもしれないなんてそのときは思いつきもせず、反射的に振り返った。開けっ放しのドアの向こうに人の姿はなく、ただ小さな足音がぱたぱたと遠ざかっていく。その足音がやけに懐かしかった。
「桃花」
私は廊下に出て後を追った。母に呼び止められた気もするが、振り返らなかった。桃花のことが気になっただけではなく、私はあの場から逃げ出したかった。争いの場にいたたまれなくなり、娘の面影にすがろうとしていたのだ。
足音を追いかけて角を曲がった先には、やっぱりあの部屋があった。その戸がほんの少し開いていて、そこからぞろりと、鮮やかな色がはみ出していた。
振袖、に見えた。
大人のものほど大きくない。桃花の七五三を数え年でやったとき、フォトスタジオであんな感じの着物をいくつも見たことを思い出した。もう遠い昔のことのようだ。その時の記憶が脳裏をよぎった。
振袖がすっと部屋の中に引っ込んだ。次の瞬間、私の膝くらいの高さのところから、女の子の顔がにゅっと出た。
ほぼ直角に傾けたおかっぱ頭の黒髪が、まるで実体があるもののようにはらはらと下に流れた。切れ長の目が私をじっと見つめる。桃花ではない。知らない子だ。見たこともない。ただ、
「しいちゃん?」
私の口はそう動いていた。
女の子の顔が、部屋の中に吸い込まれるように消えた。
頭をはたかれたように我に返った。戸を閉めなければ、と思って駆け寄ると、さっき開いていたはずの戸がきちんと閉まっていた。錠もかかっている。
それでもさっき、あの部屋の中から女の子がこちらを見ていたはずなのだ。私の妄想なんかではなく、それは確かに見たものだと思った。
「あなたがしいちゃんなの?」
私は部屋に向かって、戸の前でもう一度問いかけた。
「みんなかえってこなくなっちゃった」
幼い声が答えた。
私の目の前で、打掛錠がカタカタと揺れ始めた。錠がひとりでに動き、回り始める。
開かずの間の扉が開こうとしている。
足が動かない。
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