第九話
怒りに任せて歩いているうち、足はあの部屋に向かっていた。
わけもなく桃花に会いたかった。私があの子に呼びかけるのをやめたら、桃花の魂はこの家にいるものと混じってしまうかもしれない。頭の中を焦燥でチリチリさせながら、きっちりと閉まった引き戸の前で「桃花」と声をかけた。一瞬間が空いたあと、まるで私を嘲笑うみたいに、部屋の中でどっと何人もの笑い声が上がった。
「やめて!」
私は部屋に向かって叫んだ。「やめて! やめて! やめて!」
鬼頭さんのようにはいかなかった。笑い声は止むどころか私を囲むように大きくなり、意味のない喧噪の中から浮き上がるように「あのひと、こっちにこないの?」という知らない女の声が聞こえた。
「来ればいいのに」
「ねぇ」
「かわいそうじゃない。こっちに来たらいいのに」
「美苗、来るな」
「どうして来ないのかねぇ」
知らない声に混じって、また「来るな」という父の声が聞こえた。
「美苗」
突然背後から呼びかけられた。振り向くと、母が立っていた。
「部屋にいたら、お父さんの声でこっちに来いって……」
「絶対違う。それお父さんじゃないよ」
「でも」
「違う! この部屋が呼んでるだけ!」
「そうね、そう、わかってるの。頭ではわかってるの」
母がうなだれて呟く。「でもそうだったらいいなって思ってしまったの」
いつの間にか辺りは静かになっていた。部屋の中から蛇が尾を引くように、ふふふ、という笑い声が聞こえた。
母は昔から元気な人だった。若い頃は本州をバイクで縦断し、年をとってからも活発に動き回るのが好きだった。自分でこうと決めたらどんどん歩いていってしまうような人だ――少なくとも私はずっとそう思っていたから、今の母は痛々しくて見ていられない。
廊下でしばらく宥めた後、うつむいたままひとりで部屋に戻ろうとする母に、「私も行く」と声をかけてついていった。母は小さくうなずいた。
両親の部屋のドアを開けると、兄が父のベッドに腰かけて、A4サイズの水色の封筒から中身を取り出し、読んでいた。母の口から「あっ」という声が漏れた。
「何やってるの!?」
気が立っていた私には、部屋の主に無断で入っているということ自体がひどく腹立たしい。兄はじろりと私たちの方を見た。
「何やってるのはこっちの台詞だよ。ベッドの下の物入にしまってあったの、見つけたよ。母さんは大事なものは大抵こういうところに隠すから」
こちらに向けた封筒には、不動産会社の社名とロゴが印刷されている。いつだったか母が見せてくれた物件の資料を、兄は興味深そうに見つめている。
「もうキャンセルしたの」
そう言った母の声は震えていた。兄がまたこちらを見る。
「でも出て行こうとしたんだよな?」
「一度はね。でもやめたの」
「出て行こうとしたことには変わりないよな。もしも父さんのことがなかったら、出て行ってたんじゃないの? 困るんだよね、そういうの。綾子が悲しむから」
「綾子さんは?」
「綾子は食事の片付けしてるよ。美苗もさ、せめて飯ちゃんと食ってからケンカしろよ。よくないと思うよ、そういうの。ていうか母さんも美苗もさ、俺の嫁さんに散々世話になっといて、よくそういう態度がとれるよね」
まるで普通の――ごく普通の嫁姑問題を諫めるような口調で、兄は私たちを叱った。
「そういう問題じゃないでしょ!? そっちこそ何とも思わないの?」
「何を」
「自分の言ってることがおかしいと思わないわけ? おかしいよ!」
「おかしい?」
兄はそう言うと、自分で吐いたその言葉を噛みしめるように「うん、うん」と何度もうなずいた。
「そうだよなぁ、おかしいのかもしれない。そうなんだよなぁ、おかしいと思ったんじゃないかな。昔の俺なら」
そう言っては自分で肯定するみたいに「うん、うん」と繰り返す兄が、まったく知らない人間のように見えた。「なにそれ」と問いかけた自分の声が震えていた。
「でも俺はさぁ、もう内藤じゃなくて、
「ねえ変なこと言うのやめて。怖いよ」
「俺なんだ」
兄が突然そう言った。
「ばあちゃんの死体を部屋に動かしたの、俺なんだ。本当はばあちゃん、あの部屋で死んだんだよ。でもそれがわかると皆怖がって、家から出ていっちゃうかもしれないと思ってさ。それから美苗の元旦那に、美苗たちがここにいるって教えたのも俺だよ」
全身が凍り付いたように冷たくなった。
「みんながこの家から出て行かないようにしたかったんだよ」
そう言うと、兄は笑った。場違いに朗らかで、か弱いものを慈しむような表情だった。綾子さんにひどく似ている、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます