第八話

 平常を装いたくていつも通り食卓についた。今そのことを後悔している。いつもと同じ綾子さんの料理なのに、ろくに味がしなかった。私も気分が悪いと言って部屋に籠ればよかった、と思った。

 綾子さんはエプロンをつけたまま、きれいな手つきで箸を動かしている。黙々と口を動かしている兄は、少し元気がないように見えるものの、弱っているというほどではなさそうだった。

「お母さん、大丈夫かしら。やっぱり疲れたんでしょうね」

 綾子さんが、母の部屋の方向に視線を向けながら言った。

「まぁそりゃ母さんも疲れるよ。ばあちゃんの葬式だってまだこないだのことなのに、二回目じゃね」

 兄が答える。ぞっとするほど平静な声だった。自分の祖母と父の葬儀の話をしているはずなのに、少しの震えもためらいもなかった。ずっと同じ家庭で育ってきたはずなのに、兄がこんなことを言うなんて――まるで、兄の着ぐるみを着た別のなにかが話しているみたいだった。

「これ、美味いね」

「そう? 普通のめんつゆかけただけなんだけど」

「俺これ好きだな」

 美苗はどう思う? と話を振られそうな気がして、私は止まっていた箸を動かし始める。どうしてこんなときに料理の感想なんか言っていられるのだろう。お父さんがあんなことになったばかりなのに。

「ところで父さん、家にいるんだよな?」

 茄子の煮びたしを飲み込んで、兄が綾子さんに尋ねる。

「いるわよ。足音でわかるもの」

「すごいなぁ。息子の俺だってよくわかんないのに」

「そのうちわかるようになるわよ。お母さんの部屋の前によくいるから」

 思わずドン、と茶碗をテーブルに叩きつけるように置いた。その音が自分でも驚くほど大きく響く。綾子さんと兄がぱっとこちらを向く。

「どうしたの? 美苗さん」

 綾子さんの顔から笑みが消えている。心配そうに私を見つめている様子は、彼女がかつて保育士をやっていたという経歴を思い起こさせた。きっと優しい先生だったのだろう。ふさぎこんでいる子供の顔を、こんな風に見つめていたのかもしれない。

 吐き気がする。

 きっと、彼女には悪気なんて少しもないのだ。不謹慎なことを言っているという意識も、父の死の尊厳を踏みにじるような悪意もない。だからこそ私は、全身がぞわぞわするような嫌悪感を覚えずにはいられない。綾子さんだけではない、兄だっておかしい。私が実家を出る前――結婚前の兄は、私が知る限りこんな風ではなかった。

「美苗さん、さては怒ってるんでしょう」

 静かな水面を打つように、綾子さんの声が響いた。私の手から箸が滑り落ち、床に当たって高い音をたてた。

「わたし、ふざけてなんかないよ」

 綾子さんは続ける。「だっておとうさんもおばあちゃんも、ちゃんとうちにいるもの。何にも悲しいことないじゃない」

「綾子さん」

「ねぇ聞いて」と私の言葉を遮ったときの綾子さんの口調は、聞いたことがないほど強かった。

「わたしの実家、焼けちゃったって言ったでしょ? 家から離れたところで家族全員の訃報を聞かされたとき、わたしすごく寂しくなったの。家の焼け跡を何度も探したけど誰もいなくて、人って死んだらどこかに行っちゃうんだなって思って、ほんとに死にたくなるくらい寂しかったの。でもこの家で死んだ人はそうじゃないでしょ。どこにも行かない、ずっとここにいるの」

「違う」

「違うってなにが?」

 争いの気配を感じたのだろう、兄が立ち上がろうとするのが目の端に映った。綾子さんはじっと私を見つめている。彼女の明るい茶色の瞳に映る私の顔が、ありありと見える気がする。

「美苗さん、わたしたちもう、悲しんだり寂しかったりする必要なんかないの。家族は減ってない。この家がある限りここにいられるの。もっと前にこの家に引っ越していればよかった。そしたらお腹にいた子たちだって、ずっと一緒にいられたはずなのに」

 ガタンと椅子を鳴らして、私はその場に立ち上がった。

「どうしたの?」

「ごちそうさま。もうあなたと話が通じる気がしない」

 捨て台詞のようなものを吐きながら、ダイニングを出ようとした。

「まさか、この家を出て行かないよね?」

 心配そうな声が追いかけてきた。

「出て行くわけないでしょ。桃花を置いていけないもの」

 どうしてかわからないけれど、あの子の体はまだ生きている。起こす可能性のある方法があるのなら、何だってやってやりたい。

「美苗さん、わたし、美苗さんのことが大好きなの」

 綾子さんが言った。

「そのうちわたしのこともわかってくれると思ってる。だって家族だもん。喧嘩したりすれ違ったりしても、わたしたち家族だもんね」

 私は黙ったままダイニングを出た。言葉の通じない相手に、もう何も言い返す気がしなかった。

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