第七話

 母は私が目を開けたのを見ると、「よかった、生きてて」とごくそっけない調子で言った。それがかえって重かった。

「あんたねぇ、こんなところで寝ないでよ。夏だからって、油断してると風邪ひくわよ」

 そういうお母さんの顔色の方が悪いよ、と言いそうになってやめた。青白いを通りこして、紙のような生気のない色だ。母にも鬼頭さんのことをちゃんと紹介すればよかったかもしれない、と考えながら、私はゆっくりと身を起こした。

「寝言言ってたけど、何か夢でも見てたの?」

 母に聞かれた私は、うすぼんやりした頭で「お父さんと話してる夢」と答えた。言ってしまってから(しまった)と思った。

 今の母とどんな風に父のことを語りあえばいいのかわからない。話しているうちに、葬儀でも出なかった涙が止まらなくなってしまったらどうしよう。その気はなくても、母の負担になってしまったらどうしよう。こんなことは、今まで一度も経験したことがない。何が正解なのかわからない。

「どんな話してたの?」

 母が静かな口調で問いかけてきたので、正直に答えるほかないと思った。

「……あの部屋には入るなって言ってた。あとは、えっと、駅前のシネコンに『ひまわり』を観にいきたかったって」

 あの部屋のことを気にするだろうと予想していたら、母は「ひまわり?」と私に尋ねた。怖いほど真剣な顔をしていた。

「えーと、そう言ってたと思うけど。でも『ひまわり』って古い映画でしょ? 今頃」

 シネコンでなんてやっぱり夢っぽいね、と言いそうになって口をつぐんだ。母の口元がぶるぶると震えていた。何か悪いことを言っただろうかと心配する私の前で、母の目からぽたぽたと涙が落ちた。

「リバイバル上映するの、今度。昔観て、もう一度観たいねって話してたのよ。そう」

 言葉が続かなくなった母をソファに座らせて、私はしばらく痩せた背中を撫でていた。この家にまだいる父の気配を確かに感じた。と同時に、私にもいつかこんな風に父の死を嘆く日が来るのだろうか、と考えた。


 しばらく泣いた後で、母は「悪いんだけど」と言いながらふらっと立ち上がった。

「晩ごはん、いらないって綾子さんに言ってくれない? 私、たぶんあの人見たら我慢できずに当たってしまうと思う」

 母の気持ちはわかる。この家に住みたいと強く意見したのは綾子さんなのだから、そこに責任の所在を求めてしまう心情は理解できる。

 それをしたくない気持ちも想像できる。母も私のように綾子さんが怖いのだ。あのいつも朗らかで優しくて頼りがいのある彼女が、今は得体の知れないものに見えて仕方がないのだ。そんなものに面と向かってぶつかっていくほど、今は体力も気力も残っていないのだろう。

 勝手口の開閉音が聞こえた。足音も。きっと綾子さんだろう。これから食事の支度をするのだ。私が「わかった」と言うと、母は「ごめんね」と呟いて足早にリビングを出て行った。

 早く言いに行かなくちゃ。キッチンに行って、「母の食事はいらない」って綾子さんに言わなくちゃ――そう思いながらも、足が動かなかった。私だって母と遠からぬ気持ちなのだ。

 きっと私たちはもう、ひとつ屋根の下でなんか暮らしていくべきではないのだ。この家にやってきたときはまるで神様みたいに見えた綾子さんのことが、今は怖い。


 この家は、私たちが住むべきところではなかった。

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