第六話

 ハンカチに鼻血をにじませながら「ぢ、ぢゃんと帰れまつ」と言う鬼頭さんをどうにも信頼できず、私は家の前にタクシーを呼んだ。彼女は何度も頭を下げた。

「あの、本当に無理しないでください」

 私はまだ怖がっていた。私たちに関わったために、ある日突然鬼頭さんが死んでしまうのではないかと思うと、本当に怖ろしかった。

 鬼頭さんは首を振った。

「だ、だい、大丈夫です」

「そうは見えないです」

 私がそう言うと、彼女は黙ってうつむいた。

 やがて「迎車」の表示を出したタクシーが私たちの前に停まった。鬼頭さんは下を向いたまま後部座席に乗り込み、「じゃ、じゃあ」とくぐもった声で言った。

「あっ、タクシー代――」

 気を遣った結果とはいえ、本人の了解をとらずに呼んだタクシーだ。財布をとりに戻ろうとする私に、鬼頭さんは「い、いえ、いいんです」と言った。

「わたしが、その、勝手に来たので。じゃあ」

 引き留める間もなく、ドアが閉まった。

 遠ざかっていくタクシーのお尻を、私はしばらく見守った。それから家の中に入ろうとしたとき、「ちょっと」と声をかけられた。

 近くの家の垣根から、この家のおばあさんが顔を出して手招きしていた。近所の人だから顔こそ覚えているものの、仲良く会話などをした覚えはない。皆が私たちに対してよそよそしいのは、言うまでもなく曰く付きの家に住んでいるからだ。

 私が近づいていくと、彼女はいきなり私の右腕を掴んだ。

「お宅、引っ越した方がいいわよ」

「はい?」

「みんな遠巻きに見てるけど、心配してるのよ。あなたみたいな若い人が亡くなったら気の毒だもの。ここ、ろくな土地じゃないのよ。あのね、この家が建つ前にも立派な家が建ってたんだけど、そこも一家全滅したのよ。お宅だって、こんな短い間にふたりも亡くなって」

 ちょっとおばあちゃん、という声がして、私は弾かれたように顔を上げた。中年の女性が、家の方からこちらをながめていた。面差しがよく似ているから、このおばあさんの娘さんかもしれない。

「ごめんなさい、うちの母が変なこと言って」

 女性はぱっと頭を下げると、おばあさんを伴って家の中に入っていった。きっと彼女も委細承知しているのだろう。早口で「井戸の家が云々」と話すのが聞こえたような気がする。

 呆然とふたりの後姿を見送ってから、(私も戻らないと)と思った。戻るしかない。怖ろしいけれど、一度でもあの家から逃げ出してしまったら、もう二度と帰ることができないような気がする。桃花に呼びかけることも続けなければならない。

 庭の真ん中で「桃花」と口に出すと、何かが通り過ぎるように風が吹いた。ただの風なのか、桃花なのか、それとも別の何かなのか、私にはよくわからない。

 こんなところに桃花をひとりで置いていくことを考えると、それだけで泣きたくなってしまう。唇を嚙みしめて家に戻った。

 家の中は静かだった。二階から掃除機の音が聞こえる。たぶん綾子さんだろう。今上っていくと鉢合わせしてしまう。彼女に会いたくなかった。会えばあの朗らかな笑みを浮かべて、「美苗さん、お客様もう帰っちゃったの? ところで今日の晩ごはん、何か食べたいものある?」などと声をかけてくるに違いない。それが今は厭でたまらない。

 私はリビングに入り、テレビを点けてソファに体を沈めた。ほとんどは実家にあった家具が続投しているけれど、このソファはこの家に合わせて購入したものらしい。まだ一年も使われておらず、適度な硬さが心地よかった。病院で回復したと思ったけれど、やはり疲れている。ぼんやりしているうちに、ついうとうととしてしまった。


 夢を見た。ここではない、なつかしい元の実家の慎ましいリビングで、父と並んで椅子に座っていた。すぐ隣にいるのになぜか表情がよくわからない。よく見ようとすると「見てはいけない」と言われてしまった。

「今度駅前のシネコンで『ひまわり』やるんだってな。母さんと観に行きたかったなぁ」

「ふーん」

 夢の中の私は、父が亡くなったことがわからないらしい。父のいる風景を、ごく当たり前のように受け止めている。

「美苗、あの部屋に入るなよ」

 映画の話をしていたはずの父が、突然そう言った。「あの部屋って何なの」と聞いた自分の声で目が覚めた。

 いつの間に来たのだろう。母がソファの傍に立って、私を見下ろしていた。

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