第五話
例の部屋はいつも通りにしっかりと戸を閉じ、錠がかけられている。それでも鬼頭さんは露骨に緊張し、青ざめた顔に冷や汗をかき始めた。
「鬼頭さん、本当に大丈夫ですか?」
「だ、だい、大丈夫です」
彼女は何度もふーっ、ふーっと深い呼吸を繰り返すと、正面を向いたまま私に尋ねた。「鍵、開けてもいいですか?」
「どうぞ」
錠を外し、鬼頭さんが木の引き戸に手をかける。思いがけず勢いよく、彼女はその戸を開いた。その瞬間、何人もの笑い声が部屋の中からどっと上がった。もちろん、中には誰もいない。窓も家具もない部屋の中央の畳に、よく見ればひっかいたような
毛羽立ちがいくつも見えた。
唐突に、父の顔が目に浮かんだ。
(お父さん、なんでこんなところにいたの。それも夜中に)
父はここにいるのだろうか。私は心の中で問いかけたが、返事はなかった。
「あはははははは」
突然耳元で笑い声が弾けた。私と鬼頭さんの間の、なにもない空間から聞こえた。耳に息を吹きかけられたような感覚を覚えて、私は「ひっ」と声を上げながら後ずさった。掌で壁を叩くような音が、べたべたと廊下の端から端まで移動していった。まるで子供がふざけているようだ、と思った。
「やめて」
突然、低い声が聞こえた。
最初は誰の声なのかわからなかった。数秒のち、私はそれが鬼頭さんの口から発せられたものだと気付いた。普段の彼女の声とは似ても似つかない、くっきりとした輪郭と重みをもつ声だった。
すっ、と辺りが静まり返った。鬼頭さんはまっすぐ部屋の中を見つめている。張りつめた空気が満ちたそのとき、鬼頭さんの鼻から、ポタンと血が落ちた。
「閉めて」
「はい!」
鬼頭さんに指示されるままに、私は部屋の戸を閉めた。鬼頭さんはポケットから取り出したハンカチを鼻に当てている。
「ず、ずみまぜん、げ、限界です」鬼頭さんは私に頭を下げた。全身ががたがたと震えている。
「ご、ごめんなざい」
「いいです鬼頭さん、いいから早く外に行きましょう」
これ以上彼女をここにいさせるのは危険だという気がした。私は鬼頭さんの肩を支えながら玄関まで歩き、靴を履くのもそこそこに外に出た。何かが追いかけてくるような気がして、頭の中が焦りで熱くなった。
門扉をくぐって少し歩いたところで、鬼頭さんが「も、もういいです」と言った。
「だ、大丈夫、大丈夫に、な、なりました」
顔を押さえながら言った顔は、普段と同じ彼女に見えた。
「本当に大丈夫ですか?」
「は、はい。離れたので、も、もう」
彼女はまた頭を下げた。「い、入れてもらって、その、おうちに。ありがとうございました」
「こちらこそ……あの、どうでした?」
「その、母のやった結界の、なんていうか、『下地』みたいなものが、その、残っているみたいなので……あの、思ったよりは、マシです。な、なんとか、なるかもです。あ、いや、ほ、ほんとにやるかどうかはその、も、桃花ちゃんのことも、その、あるので、その」
なんとかなるかも、と言いつつ、鬼頭さんの顔色は真っ青を通り越して真っ白だった。手先が震えているし、鼻血も止まっていないらしい。
本当になんとかなるのだろうか? それにもし「なんとかなった」としても、桃花のことは解決しないままだ。
私の顔にはきっと不安な気持ちが表れていたに違いない。それは鬼頭さんも変わらないのか、
「あの、その、なんとかなる、なので。か、確実とかでは――ないです」と、申し訳なさそうに付け加えた。
「その、ご、ご安心くださいとかは、い、言えないです。ただ、その、最善を尽くします。考えさせてください」
心細そうだった彼女の声に、そのとき一瞬強い芯のようなものが通った気がした。そのことが、私にはかえって怖かった。
(この家のせいで、鬼頭さんまで命を落としたらどうしよう)
それは実感を伴ったおそれだった。
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