第四話

 そういえば以前、鬼頭さんはうちに入るのをひどく嫌がっていた――そのことを、彼女がやってきてようやく思い出した。電話をもらった日の翌日、日差しの明るい午後のことだった。

 門扉をくぐる前から、鬼頭さんの額には汗がにじみ始め、庭に足を踏み入れた瞬間、喉の奥で「うぅ」と獣のように唸った。その様子が異様に思えるのだろうか、近所に住む女性がこちらを不安そうに見つめている。

 祖母と父の死が相次いで以降、近隣住民の態度は前にもましてよそよそしかった。曰く付き物件に引っ越してきた挙句、立て続けに住人が亡くなったのだ。気味悪く思われても仕方がない。

「大丈夫ですか?」

 近所の人を無視して、私は彼女に声をかけた。

「だ、大丈夫。大丈夫です」

 鬼頭さんは両手を祈るように握りしめ、ふーっと長く息を吐いた。同じくらいの時間をかけてゆっくりと息を吸い、もう一度吐く。「い、行きましょう」

 玄関の引き戸を開くと、目の前の廊下を目に見えない何かの足音が、バタバタと音をたてて走り去っていった。もうこれくらいでは大騒ぎしなくなった自分の神経が恨めしい。鬼頭さんは「よしっ」と小さく言って敷居をまたいだ。

「ふーっ。だ、大丈夫です。あ、案外、思ってたより、いけます」

 あくまで名目は父のお悔やみだ。私たちは仏壇が安置されている座敷に向かった。普段は誰も使用しない八畳の部屋に、この座敷には不釣り合いなほど簡素で小さな仏壇が備え付けられている。本来はもっと大きなものを設置する予定だったんだろうな、と何度も思ったものだ。祖母の位牌もここにある。

 鬼頭さんは新しい線香を立てて、仏壇に手を合わせた。霊能者だから何か特別なことをするのだろうかと疑問に思っていたが、ごく普通の、心のこもった動作に見えた。

「鬼頭さんの言ったとおりだったかもしれません」

 私がそう言うと、鬼頭さんは分厚い眼鏡の奥で目をぱちぱちさせた。何のことかピンときていないらしい。

「前、コーヒーショップで言ってたでしょう。家を出た方がいいって」

「あ、はい。い、言いました」

 ようやくそのことを思い出したらしく、鬼頭さんはこくこくとうなずいた。

「その、なんというか――父は呼ばれたんでしょうか。あの部屋に」

「そ、それは、その、わかりません。わたし程度では、何が起きたか――す、すみません。お話、あ、あとで伺います。あの、お部屋を」

 鬼頭さんは言葉を切り、唾を飲み込んでから「お部屋を、見せてください」と言った。きっと、この家での滞在時間を極力延ばしたくないのだろう。

 そのとき、襖をとんとんと叩く音がした。

「美苗さん、どなたかいらっしゃるの?」

 綾子さんの声だ。「お茶でもお持ちしましょうか」

「あっ、大丈夫。お線香をあげに来てくれただけで、すぐ帰るって」

 私はとっさに断った。鬼頭さんはいかにも具合がよくなさそうだ。のんびりお茶など飲んでいる場合ではない。

「そう? なにかあったら言ってね。じゃあ、ご挨拶だけしてもいいかしら」

 ふすまがスラリと開いて、綾子さんが顔を出した。「あら、前に門のところにいらっしゃった方でしょ」

「そ、そうです」

 言い当てられたことに驚いたのだろうか、鬼頭さんは正座したまま飛び上がりそうに見えた。

「美苗さんの兄嫁の、三輪坂綾子です」

「は、はい」

 鬼頭さんは名乗り返さず、ぺたんと畳に頭を下げた。綾子さんはにこにこしながら「じゃあ、失礼しますね」と言って襖を閉めた。足音がキッチンの方に遠ざかっていく。あの部屋とは反対方向だ。

「今のうちに行きましょう」

 声をかける。鬼頭さんは前にもまして真っ青になっていた。

「あ、あの方、連れていますね。その、あの」

 ああ、と声を出して、彼女は膝の上で拳を握った。

「だ、大丈夫。大丈夫。行きましょう」

 鬼頭さんは私を振り返り、もう一度確かめるように「行きましょう」と言った。

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