ずっとうちにいればいいのに

第一話

 電話を切ってからようやく、(しいちゃんのことを鬼頭さんに言わなければ)と気づいた。私どころか綾子さんにとっても詳細不明の存在らしいけれど、それでも何かの手がかりになればと思ったのだ。私たちにはわからないことでも、鬼頭さんにとっては大切な情報かもしれない。

 電話の前でメールを打とうとしたところで、玄関が開く音と「ただいまぁ」という綾子さんの朗らかな声がした。私はぎょっとして編集画面を閉じ、メールを送り損ねてしまった。

 しいちゃんのことは、なかなか鬼頭さんに連絡できなかった。不思議とそのことを思い出すのは仕事中だったり入浴中だったりして、(部屋に戻ったらメールを送ろう)などと考えるものの、なぜかすっぱりと忘れてしまう。なんだか家に邪魔をされているようで気味が悪かった。ようやく会社に行く途中の車中で思い出し、(会社に到着したら連絡しよう)と心の中で唱えた日、私は自社ビルの前で倒れて病院に運ばれた。夏の盛りのことだった。

 倒れるのも無理からぬことではあった。家では頻繁に足音や人の声が聞こえるようになり、気が休まる暇がない。桃花は未だに意識が戻る気配がなく、入院生活を続けていた。要するに私はひどく疲れていたのだ。

 倒れたのはおそらく過労のためだろうと言われつつ、検査のために何日か入院することに決まった。家から荷物を持ってきた母は、私を見るとほーっと深い溜息をついた。

「すぐに無理するんだから。心配したのよ」

「ごめんなさい」

「まぁ、疲れちゃうのもわかるけど」

 母も目の下にクマを作っている。家の中は、今や元気そうなのは綾子さんくらい、次点で兄がぎりぎり平気そうに見えるという有様だった。

「ところで新居の契約、したわよ」

 母はそう言って、にっと笑った。「結構いいところが見つかったと思うの。まぁ、バイクを置くのはちょっと厳しいかもしれないけど」

「そう」

「でも入居するのはちょっと先になっちゃう。まだ前の人が引っ越してないみたいでね……とはいえ、あんたの入院とかぶらなくてよかったかも」

 母は一人住まいには広すぎるくらいの物件を借りたようだ。もちろん、私が避難してくることを見越してのことだろう。ありがたいけれど、心配でもあった。金銭面だけではない。もしも綾子さんにばれたら、母の引っ越しを全力で阻止しにかかるのではないだろうか。

「私もそう思う。だから綾子さんには絶対内緒ね。圭一にも言っちゃだめ。お父さんは一応知ってるけど、住所とか物件の名前までは知らない」

 私は桃花のことを母に託した。入院中は声をかけることができない。鬼頭さんに言われたということもあるけれど、もしも桃花があの家にいるなら、名前を呼び続けてあげたかった。母は「わかった。どうせまだまだ引っ越せないし、任せといて」と応じてくれた。入院している病院へも通ってくれるという。ひとまず安心だ。

 母が帰ってから間もなく、私はしいちゃんのことを思い出した。今なら鬼頭さんに連絡できる、と直感が告げていた。

 携帯電話での通話は談話室でするように、という病院側の規定を思い出しながら、私はベッドから立ち上がった。多少立ち眩みがしたが、どうしても鬼頭さんと電話をしたかった。彼女の声を聞いて、情報が伝わったことを確認しなければ気が済まなかったのだ。

 病院の建物自体は古かったが、談話室は最近になって改装したらしい。明るい色の壁紙に、同系色のソファがあちこちに置かれ、壁に沿って自動販売機が並んでいた。ほどよいざわめきが満ちている。生きている人間の発する音だ。それが心強い。

 私は鬼頭さんに電話をかけ始めた。

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