幕間

サンパルト境町904号室

 突然の引っ越しから一日休業日を挟んだ翌日、黒木はまったく変わらない通勤経路をたどって、サンパルト境町に出勤してきた。

 904号室は角部屋である。何気なく上を見上げると、途中の階層の窓に、外を眺めているらしい小さな子どもの顔を見つけた。

(やっぱりファミリー向けの物件だよなぁ)

 確かこの辺には、保育園や小学校、小児科などもあったはずだ。両親と小さな子どもが暮らすにはちょうどいい場所のように思える。まぁ別に独身男性が住居兼事務所にしていたっていいのだが――などと考えながら黒木はエントランスに向かった。エントランスのインターホンで、つい1004号室を呼び出しそうになってしまう。習慣とはなかなか抜けないものだ。

「あっ、黒木さんハザッス!」

 オートロックを解除してもらってロビーに入った黒木に、管理人室の小窓の中から二階堂が声をかけてきた。

「今日もでかいっすねー。かっけーな、モビルスーツみたいで」

「はぁ……どうも」

 褒められているのかけなされているのか、いまいち判断がつきかねる。

「二階堂さん、こないだ大丈夫でした? あの後……」

「あー、あのおばちゃんね! 全然大丈夫っす。それより、引っ越しの後どっすかね? シロさん元気すか?」

「まぁ……元気なんじゃないでしょうか。引っ越し自体はほとんど業者任せだったし」

 内心(つい先日会ったばかりなのに、わざわざ聞くことか?)と不思議に思いつつ、黒木はそう答えた。

「っすよねー。何か不都合あったらオレの携帯にかけてくださいね」

 二階堂は小窓から右腕を出して手を振った。黒木も軽く振り返した。

 904号室の前まで来ると、チャイムを押す前からドアが開いた。どんぴしゃのタイミングである。もっとも志朗が妙な勘の鋭さを発揮するのは今に始まったことではないから、黒木も今更何とも思わない。

「おはようございます」

「おはよ」

「なんか声変じゃないですか?」

「ボク疲れると喉にくるからね」

「ああ、引っ越し」

 したばかりですからね、と言いかけて、黒木ははたと(それはないか)と思った。家具や荷物は業者がほぼ元通りに設置しており、残された作業は極めて少なかったはずだ。とはいえ住環境が変わるというのはそれだけで疲れるものかもしれない――と思いかけてまた違和感を覚える。同じマンションの階層を一階下っただけなのだから、環境はほぼ変わっていない。部屋の間取りも、窓からの景色も、何もかも元のままと言っていい。

 なにかしら別件があって疲れたのかと思いきや、志朗は「そう、引っ越しがね」と答えて咳払いをした。


 午後六時、退勤した黒木がマンション一階のロビーに到着すると、二階堂が管理人室から再び声をかけてきた。

「あっ黒木さん、お疲れーす。志朗さん元気すか?」

 またこの質問か、と思いながら、黒木は「げ……いや、普段より元気じゃなかったですね」と正直に答えた。

「そっすか! どもです、あざーす!」

「どうも」

 会釈して、黒木はエントランスを出た。

 少し離れたところで、黒木は何気なく振り返った。青く暮れかけた空を背景に、十階建てのマンションがぬっと聳え立っている。その中層階に、黒木はおそらく今朝見たのと同じ子どもの顔を見た。ふと思い立って手を振ってみたが、子どもはさっと隠れてしまった。

(怖がられたかな)

 友人からは「動く仁王像」と言われたこともある外見の黒木である。幼児に怖がられても仕方ないが、少し寂しい。

(そういえば最近、大学の同期に子どもが産まれたやつがいたっけ)と黒木は思い出す。独身の彼からすれば、子育てなんて遠い世界の話のようなものだ。所属していたワンダーフォーゲル部には、今でも年に一度か二度、イベントに合わせて顔を出す。しかし、結婚したり子どもが産まれたりすれば、そういうわけにはいかないだろう。

(すげえよなぁ)と、黒木は素直にそう思う。自分には誰かの人生を背負うような覚悟はない。いずれそういう時が来るのかもしれないが、少なくとも今はまだ遠い。

 前に向き直り、改めてマンションを背にすると、黒木は帰路についた。

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