第九話

 これまで足音や人の気配はあったが、声が聞こえたのは初めてだった。

 桃花かもしれない、と思うといても立ってもいられなかった。私は足音を殺して例の部屋に向かった。暗闇に目が慣れると、灯りを消した廊下の奥に人が立っているのが見えた。

 綾子さんだった。

 思わず喉の奥で「ひっ」と声が出た。綾子さんを見て驚いたせいではない。

 あの部屋の戸が黒々と開いている。

「うん、そう、みんなここにいてほしいの。だって賑やかな方がいいでしょ」

 綾子さんは開かずの間に向かって声をかけている。家族の誰かと話しているときと変わらない口調だった。声だけ聞けば、まるで当たり前の世間話のようだ。

「うん、うん」

 暗がりに向かってうなずく姿に、私は「綾子さん」と声をかけた。黙って見ているのが怖かった。夏だというのに腕に鳥肌が立っている。黒っぽい人影がこちらを向き、「美苗さん」と言った。

「綾子さん、何やってるの? 誰と話してたの?」

 私は歩きながら彼女に詰め寄った。暗いせいで、彼女がどんな表情をしているのかよくわからない。私は彼女の横に立って部屋の中を見た。真っ暗で何も見えないのにも関わらず、そこには何かの気配が濃密に立ち込めていた。何者かがここに確実にいるということを、私は改めて悟った。

 綾子さんは黙って引き戸を閉め、錠をかけた。私はそれを止めようとはしなかった。むしろ彼女がそうしたことにほっとしていた。あと数秒それが遅かったら、「早く閉めて」と訴えていたことだろう。

「しいちゃん」

 綾子さんが歌うように呟いた。

「なに?」

「しいちゃんと話していたの」

 やはり綾子さんは何かを知っているのだ。

 前々から彼女は、この部屋にいる何者かについて知っていた。どの程度かはわからないけれど、少なくとも「人間の代わりに人形を入れておこう」なんて思いつくくらいには。おそらく、この部屋にいるものが人恋しさのあまり人間を呼び込もうとすることを、彼女は理解しているのだ。

「美苗さん、おばあちゃんがよく、『しいちゃん』って言ってたの、覚えてる?」

 綾子さんが言った。

「桃花のことも間違えてそう呼んでたよね。ねぇ、しいちゃんって誰? どうして綾子さんが知ってるの?」

「わたしもそんなには知らないのよ。ただ、この子がしいちゃんなんだってことはわかるの。ああ、懐かしいなぁ」

「なんですって?」

「懐かしい。しいちゃんが欲しがってる家族、わたしの家とよく似てるの。懐かしいなぁ、そんな感じの家だったの。わかるなぁ」

「一体何なの?」

「家族は多い方がいいの」と綾子さんが言った。「家は賑やかな方がいいでしょう」

「わからないわ。何を言ってるの? しいちゃんって何?」

「小さい女の子」

 きゃははは。

 綾子さんの声にかぶせるように、例の部屋の中から笑い声が聞こえた。

 甲高い子どもの声だったが、桃花の声ではなかった。聞いたことのない声が、無人のはずの室内から確かに、はっきりと聞こえた。

 固まっている私に、綾子さんが「ちょっと話しましょうか」と言った。

「夜遅いからちょっとね。よく考えたら美苗さん、わたしのことあんまり知らないでしょう。この家をずっと出てたもんね。家族にそういうの、よくなかったわ」

 綾子さんはそう言いながら、キッチンの方に向かって歩き出した。私はつい引き込まれるようにして、その後を追った。

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