第八話

 店内にいたたまれなくなって、私たちは店を出た。どのみち、これ以上話すことはなさそうだった。駐車場に停めてあった父の車に乗り込むとき、こちらに向かって頭を下げる鬼頭さんの姿を見た。

 私たちは言葉少なに帰宅した。道中、一度だけ「どうしよう」と独り言のように問いかけた。父は「すぐには決められん」と答えた。それから「鬼頭さんに謝りなさい。気持ちはわかるけども」と付け加えた。

 私は子供のように「はい」と答えた。

 外から見る「井戸の家」は――依然としてここが「我が家」という感じがしない――なんだかこの建物自体が意志をもっているように見えた。巨大な生き物のようだと思った瞬間、家が蠢動したように見えて私は目を擦った。門の内側に入ると、ざわざわとした気配に包まれるような気がした。

 この家にいる何かは、人恋しくて、寂しがっている――鬼頭さんが言っていたことを思い出す。だからここはいつまでも「家」なのだと。私には家というよりも「巣」という感じがする。人間の言葉が通じない、得体のしれないものが潜んでいる暗い穴のように思えて仕方がない。

 ここにずっと住んでいるのは厭だ。耐えられない。でも、ここに桃花を置いていくのも厭だ。「置いていく」という言葉を思い浮かべるだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。

「大丈夫か?」

 車を降りた私に、父が声をかけた。実際、ひどく疲れていた。あまりに感情が昂ったせいだろう。私は「ちょっと休むね」と言って玄関をくぐった。

 自室に戻る前に例の部屋の前に行き、「桃花」と声をかけた。

「桃花、早く戻ってきて。お願い」

 返事が聞こえないか、足音がしないかと思って板戸に耳をつけた。畳の上をすり足で歩くような音が聞こえた。桃花ではない。きっとそうだ。

 私は溜息をついた。二階の自室に向かうと布団を敷き、その上に倒れ込んで目を閉じた。

 いつの間にか眠っていた。何か小さな動物になって、暗い洞窟の隅で寝る夢を見た。

 

 目が覚めた。

 時計を見ると、夜の十一時を過ぎている。夕方頃に帰ってきたはずなのに、もうそんなに時間が経ってしまったのかと呆然とした。途中で誰か起こしにきただろうか? 記憶がない。空腹でお腹がギュウ、と鳴った。

 食事をして入浴をしなければ。私は立ち上がった。以前鬼頭さんに言われたとおり、三食きちんと食べて、ちゃんと眠って、元気な自分でいなければ――

 私はまた鬼頭さんのことを思い出した。彼女の顔を、どもりがちな声を、今日言われたことを思い出した。眠って頭がクールダウンしたのだろう、もう自分のやったことを後悔する番が来ていた。食事を済ませたらちゃんと謝罪のメールを打とう、と思った。

 一階はすでに暗くなっていた。両親も兄夫婦も一階で寝起きしているから、もう皆眠ってしまったのだろう。もしくは部屋で眠れずに過ごしているのかもしれない。キッチンに行くとダイニングテーブルの上に一人分の食事がとり分けられており、電話台に置かれているメモ帳の用紙が添えられていた。きれいな文字で「美苗さんの分 おつかれさま」と書かれている。綾子さんだ。

 あの人を信じていいのか悪いのかわからない。得体の知れない不気味さを感じているにも関わらず、こんな風に弱っているときには、彼女の気遣いがひどく身に染みてしまう。私は敵か味方かわからない人の作った料理を、それでも彼女は食事におかしなものを入れたりしないはずだと、謎の確信をもって食べ始めた。温めるのが面倒でそのまま食べたのに、豚こま肉で作る酢豚も、付け合わせの小鉢も、茄子の味噌汁も美味しい。なんだか泣きそうになった。

 食べ終えた食器を洗って水切り籠に入れ、入浴は二階でしようとキッチンを出た。今夜は静かだ。ついでにあの部屋に行って桃花に声をかけようと足を向けた。まだこの行為が無意味だとは思いたくない。

 数歩歩いたところで私は足を止め、耳を澄ませた。

 暗い廊下の奥から人の声が聞こえてくる。

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