第七話

 じゃあ私はどうしたらいいんですか。


 そう言った自分の声が、やけに遠くで鳴っているように聞こえた。

 息を吸うと、心臓が締め上げられるような心地がした。不安で胸がどきどきする。この件で今のところ唯一頼りになりそうなのは鬼頭さんだけなのに、彼女に桃花を助けられないのだとすれば、どうしたらいいのだろう。

 以前話したとき、鬼頭さんは(わたしもがんばりますので)と言った。あれは誠実な言葉だったと思う。彼女は彼女なりに精一杯行動しようとしたうえで、今こうしてふたたび顔を覆い、頭を下げているのだ。

 この人には桃花を助けることができない。それがどうにもならない事実なのだとしたら――私たちには何ができるというのだろう。

「ご、ごめんなさい。あの家の、その、原因みたいなものを、と、取り除くことは、は、母にも、できませんでした」

 鬼頭さんの肩が震えている。

「その――原因ってのは、何なんですか」

 父が尋ねた。父の声も掠れている。異様な空気を察したのか、近くを通りかかった店員がちらりとこちらを向いたのがわかった。

「わ、わたしにも、それはよく、わからなくて、ただその、とても人恋しいんです。さ、寂しがっているんです。だからその、ずっと、人を呼んでいて、だからあそこはその、ずっと『家』なんです。ほ、ほかのものには、ならないし、その、誰かがきっと住んでしまうんです」

 そのくらい強いものなんです、という言葉が、鬼頭さんの小さな唇から漏れた。

「――だから?」

 私はテーブル越しに乗り出した。

「だ、だから、下手に手をつけたら、き、危険なんです」

「だから、じゃあ私たち、どうしたらいいんですか?」

 父が私の腕を引っ張ったが、止められなかった。鬼頭さんをこんな風に問い詰めて何になるだろう、と思いながら、そうせずにはいられなかった。

「『押し込めておく』しか手段がないんだとしたら、どうしたらいいんですか? 私たち、桃花を犠牲にして暮らせってことですか?」

 鬼頭さんは何も言わなかった。言えなかったのだと思う。

「それなら私は、今のままでいいです。今のままあそこで暮らして……」

「そ、それだと!」鬼頭さんが突然大きな声を出して、はっと口をふさいだ。「そ、その――また、誰かが呼ばれると、思います……」

「じゃあ」

「い、家を出られるのが、いいと、思います」

 鬼頭さんは言いにくそうに答えた。「たぶん、それが、その、一番被害の少ない、方法かと、おも、思います」

「桃花を置いていけってことですか?」

 自分の声が震えている。鬼頭さんが「ごめんなさい」と言った。

 頭が真っ白になった。直後、乾いた音がした。自分の掌が鬼頭さんの頬を叩いた音だと気づくまでに、何秒もかかった。

「美苗!」父が私を自分の方に引っ張った。

「申し訳ありません、鬼頭さん」

 鬼頭さんに謝る父にまたカッとなって、私は「なんで!」と叫んだ。店内がざわつく気配がした。

「お父さん、なんでそんな冷静でいられるの?」

 自分にもどうしようもない感情の渦が頭の中で暴れていた。こんなことをしてはいけない、と頭の隅でもう一人の自分が叱っている。私はぐっと歯を食いしばった。

「い、いいんです。その……怒って、当然です」

 鬼頭さんはそう呟いて、ずれた眼鏡を静かに直した。

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