第十話
家自体の小康状態とでもいうべき日々が続くなか、一週間ぶりに兄が帰宅した。土曜日の午前中だった。
綾子さんは夏風邪をひいたらしい祖母を病院に連れていき、まだ帰ってこない。たまたま出迎えた私に、兄は「これ綾子に渡しといて」と紙袋に入った大量の佃煮を押し付けた。
「なにこれ」
「買ってくるように頼まれてたやつ」
「それはいいけど、自分で渡したら?」
つい口調が尖ってしまうのは、兄だけがこの家から逃れているように見えるからだ。外泊が多いのも仕事なら仕方がない、こんな風に言うのはやめた方がいいと思いつつ、それでも言わずには気がすまない。兄も私の心情はお見通しらしく、「俺だって好きで家を空けてるわけじゃないよ」と返した。
「大体俺が家にいたってなんの役にも立たないじゃない。家事なんか何もできないし、だったら外で働いてた方がいい気がしない?」
「一概にそういうものでもないでしょ、家族なんだから」
「そういや、桃花ちゃんはどうなの」
露骨に話題をそらされた。突然桃花の名前を出されると、私は少し怯んでしまう。
「……ほとんど変わらない。入院したときのまんま」
「そうか。早く元気になるといいな」
「うん」
会話が途切れた。
ひさしぶりに顔を見て話せるチャンスを逃したくなかった。私はやにわに「ねぇこの家さ」と切り出した。
外泊の多い兄は、もしかするとこの家の異様な部分をよく知らないのかもしれない。そう思った私を、兄はすぐに「わかってるよ、気のせいじゃないと思う」と答えて簡単に裏切った。
「そうでもなきゃこんな便のいい土地のでかい家、あんな値段で買えないって」
「お兄ちゃん、平気なの?」
「平気っていうか……そもそも、何もかも百点満点で満足いくことなんか早々ないよ。百点満点だと思ってたものでも、後になって我慢できないくらいの欠点が見つかることあるし、それよりは最初から瑕疵が見えてたほうが俺はマシだと思うよ」
元夫のことを言われたのだろうか、と思った。百点満点だと思っていたのに後で我慢できない瑕疵が発覚する。まさにそういうひとだった。
先日のことは元義両親に連絡し、そちらから対処すると言ってもらえた。実際、その後は夫の姿を見ていない。この短期間ではまだ判断できないかもしれないが……。
「そういえば無言電話があるの。なんだと思う?」
そう尋ねてみた。別れた旦那じゃないの? と言われるのを想定していた。ところが兄は「綾子は何か言ってた?」と言った。
「何で綾子さん?」
「なんでも。綾子は何か言ってた?」
「……特に。あまり気にしてないみたい」
「じゃあいいんじゃない」
兄はネクタイを緩めながらあくびをした。
私は綾子さんが電話に出ていたときのことを思い出した。妙に印象に残る光景だった。(何にも言わなかったのよ、おばあちゃん。うんうん、よかったねぇ。嬉しいねぇ)
「綾子が何も言わないならそれでいいんだよ。家のことは綾子に任せるっていう話なんだから」
「それでも、なんでも任せっきりなんておかしいでしょ」
私が反論すると、兄は首を振った。
「じゃなくて、そういう約束で結婚してもらったんだよ。俺が」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます