第九話

 足音が近づいてくる。ややあって、「あらっ、美苗さんここにいたの」と言いながら、綾子さんが部屋に入ってきた。

「勝手にごめんなさい。あの、綾子さん。今おばあちゃん、私のことわかってたのよ。美苗って呼んでくれたの」

 勝手に部屋に入っていたことを弁明する自分の声は、やはり言い訳めいて聞こえた。綾子さんは相変わらず朗らかな声で「あらー、珍しい!」と言った。

「たまぁに頭がはっきりすること、あるみたいよ。よかったねぇ、おばあちゃん。美苗さんですよ」

「綾子さん。美苗ねぇ、離婚したんですって。やさしくしてあげてね」

「はぁい」

 綾子さんは苦笑まじりに応えた。

「じゃあ美苗さん、今日の晩ごはん何がいい? できるだけリクエスト聞いてあげる」

「えっ、でも」

「いいからいいから」綾子さんは私に顔を寄せると「美苗さん、大変でしょ。ご飯のリクエストくらい聞くわよ」と言って微笑んだ。その笑顔は本当に屈託のないものに見えて、私は彼女に疑いの気持ちを抱いていることが申し訳ないような気持ちになってしまう。

 もしも私たちの住処がこの家でなかったら――何度目かわからない「もしも」を心の中で繰り返した。そしたらどんなによかっただろう。でももう、桃花を取り戻さない限りは、この家を出て行くことができなくなってしまった。


 人形のことを正面から聞いたとして、綾子さんはちゃんと応えてくれるだろうか――そう思っていたのは杞憂だった。ところが思い切って祖母の前で話を切り出した私に、「そうよ」と答えた彼女は実にあっけらかんとしていた。

「あれねぇ、急になくなったからどうしたのかと思ってたの。怖い思いをさせちゃってたのね。ごめんなさいね」

「あの……あれはいったい何だったの?」

「あれはねぇ、友引人形っていうの。知ってる?」

 そう言って、綾子さんはさながら子供に花の名前を問うように、私に笑いかけた。

「いいえ」

「死んだ人が親しかった人を連れて行くといって、友引にお葬式をするのを避けるでしょ。友引人形は、死んだ人が誰かを連れて行かないように、人間の代わりにお棺に入れるの。副葬品ってことね」

「綾子さん、よくそんなこと知ってたね」

「うちの地元でやってたのよ」

「そう……ねぇ、どうしてあの部屋にその、友引人形を入れたの?」

「うーん……なんとなくかな。そのときはそれがいいと思ったの」

 綾子さんはおっとりとした声で答えた。「ひとつ屋根の下にいたら、なんとなくわかることってあるでしょう?」

 その「ひとつ屋根の下にいたら」という言葉に、私はなぜか、ひどくぞっとさせられた。

 祖母は話を聞いているのかいないのか、黙ってにこにこしているだけだった。


 翌日から仕事に復帰した。定時退社すれば、病院の面会時間内に桃花のお見舞いに行くことができる。家族にも同僚にも心配されたけれど、そうすることが必要だと思った。桃花が戻ってきた後、私が職を失っていたのでは何かと困る。せっかく福利厚生のしっかりしたところに勤めているのだから、この職場を逃してはなるまい。

 鬼頭さんの人形のおかげだろう、また静かな日々が続いていた。もっともあの人形を部屋に入れたからといって、すぐ桃花が戻ってくるわけではなく、相変わらず容体が変わらないままの娘を見ていると心が痛んだ。私はあの部屋の中に声をかけ、落ち込みそうになる気持ちを励ましながら食事をとった。

 私は鬼頭さんのような霊能者ではない。霊感らしきものも、特別な力も何も持っていない。それでもできることがあるのだと、彼女に教えてもらって本当によかったと思った。四六時中無力感に苛まれているよりはずっといい。

 何度か無言電話があり、私はそのたびに元夫のことを思い出して肝を冷やしたり、腹の中が煮えくり返るような気持ちになったりした。私はその無言電話の主を、すっかり元夫だと思い込んでおり、他に犯人がいるとは考えもしなかった。

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