第八話
祖母は窓辺の椅子に座って、ひとりで庭を見ながら歌を歌っていた。古い童謡だろうか、私の知らない歌だ。
「おばあちゃん」と声をかけながら、部屋の中に入った。祖母の肩越しに窓の外を見ると、綾子さんが庭の物干しに洗濯物をかけている。きっと今日何度目かの洗濯だろう。そんなことを考えていると、ふいに祖母が私の方を向いて「美苗ちゃん」と呼んだ。
驚いた。少なくともこの家に引っ越してきて以降、祖母が私のことを「美苗ちゃん」と呼ぶのはこれが初めてだ。心なしか表情も普段よりしっかりしているように見える。
「おばあちゃん、私のことわかるの?」
私が尋ねると、祖母はにこにこしながら「いつ帰ってきたの?」と言った。
「えーっ、ええとね、もう三ヵ月くらい一緒に住んでるよ」
「あらぁそう。向こうで何かあったの?」
「実は……私、離婚したの」
この世代のひとに「離婚した」なんて言ったらびっくりされるだろう、叱られるかもしれない――そう思っていたが、祖母はまた「あらぁそう」と言った。
「美苗ちゃんがそうしたかったんなら、それがいいわよ」
私は拍子抜けしながら、それでもその言葉は有難いと思った。祖母はゆっくりうなずきながら、「この家、ちっちゃい子どもがいるわねぇ」と言った。離婚のことなどもう忘れてしまったかのような口ぶりだった。
「ちっちゃい子? ああ、桃花ね。おばあちゃん、桃花ってわかるかな」
「あたしの知らない子だねぇ」
そうか、と改めて思った。桃花が産まれたとき、祖母の認知症はすでに進んでいた。おそらく桃花のことは「知らない」のだ。祖母は続けて「わたし、しいちゃんがいるのかと思ったわ」と言った。
「しいちゃん?」
「でもねぇ、しいちゃんが走るわけないわね」祖母はそう言ってくすくすと笑った。しいちゃんとは誰だろう。祖母の幼友達だろうと思っているけれど、改めて名前を呼ばれると引っかかるものがある。
認知症が進んだ今、祖母の意識はどの時代を旅しているのだろうか? それも気になるけれど、この家をどう思っているのかも気になる。祖母も何かを感じたり、見たり聞いたりしているのだろうか?
「ねぇおばあちゃん、この家、その――どう思う? 今住んでる家のこと」
祖母は少し考え、「そうねえ、綾子さんが嬉しそうだからいいわね」と言った。
「綾子さんが……」
「あたしねぇ、前のおうちに住んでたとき、時々勝手に外へ出てたでしょう」
初めて聞く話だった。祖母はいつになくしっかりとした口調で続けた。
「あれねぇ、綾子さんがしんどそうなときだったの。あのひと、赤ちゃんだめだったでしょう。だからあたしのこと、一所懸命子どもだと思おうとしてるのよ。おばあちゃん、まるで子どもみたいねぇって何度も言うのよ。悪口ではないの、それでないとやっていられないってことがわかるのよ。あれが気の毒でねぇ、わたし外へ出てたの。すぐ探しにきちゃうんだけどねぇ」
「危ないなぁ。車に轢かれたりしたらどうするつもりだったのよ」
「いっそそれでもいいかと思ったのよ」祖母はあっさりと怖ろしいことを言う。「でも綾子さん、こっちの家に来たら楽しそう。やっぱりほんとの子どもがいる家だからなのね」
いつの間にか窓の外にいたはずの綾子さんの姿がない。玄関を開ける音がして、廊下を歩くスリッパの音が聞こえてきた。
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