第四話

 どうしても目覚めない桃花を抱いて、両親と救急病院に駆け込んだ。いくら待っても、太陽が高く昇っても、状況は変わらなかった。

 医師にも、桃花がどうして眠ったままなのかわからないという。少なくとも、もっと詳しい検査をしてみないとならないだろう、と。私は危うく「あの部屋に入ったからです」と大声をあげるところだった。あと少し理性が摩耗していたら、きっとそうしていたことだろう。

 完全看護の病棟で、私がしてあげられる特別なことなんかひとつもなかった。病室ではただ桃花の手を握っていた。こうやっている私の方が、心臓が千切れて死んでしまう気がした。入院の手続きは家族が手伝ってくれて、大したことなんか何もしていないはずなのに、どっと疲れた。


 夕方過ぎにようやく帰宅すると、私は部屋に閉じこもった。この部屋で長い時間一人になるのは初めてかもしれない。「一人の時間ができたらのんびり本を読んだりしたい」と思うことはよくあるけれど、こんな状況でその願いが実現したところで、何もする気になれなかった。桃花がよく使っていた、ウサギのキャラクターが描かれた小さなローテーブル。お気に入りのぬいぐるみのうさちゃんが、ひどく寂しそうに見える。

 桃花は熱はよく出すけれど、病弱というほどではない。重大な持病もない、至って健康な子のはずだ。それでも(あの子が目覚めなかったらどうしよう)という気持ちは消えない。消えないどころか、胸いっぱいに膨らんでいく。

 不安とともに、今更のように後悔が押し寄せてくる。私はどうして、こんな家に留まってしまったのだろう。この家に頼らなくたって、たったふたりきりだって、何とか暮らしていけたはずだったのに。

 せめて日曜日、公園から帰った後も、もっと楽しく過ごせていたらよかった。あの夜、眠らずにあの子を見張っていればよかった。

 きっと私が眠っている間に、なにかが桃花を迎えに来たのだ。私に対する不信感が、あの子をあの部屋に連れて行ってしまった。

 急に涙がぽろぽろ出てきた。涙はなかなか止まらず、床についた私の膝をぐずぐずに濡らした。


 食事もとらずに引きこもっているうちに、一日の疲れが出たらしい。部屋の電気をつけたまま、私はいつのまにか眠っていた。床の上だったので体の節々が痛んだ。喉が乾いて痛い。

 目が覚めたのは、また階下の足音を聞きつけたからだった。ああまた足音か、そう思いかけて、私はぱっと体を起こした。急いで部屋を出て、真っ暗な一階に向かった。

 足音は続いていた。あの部屋に近づくほど、それは大きくなっていく。パタパタと軽やかでいて、まだどこかたどたどしい足取り。

 私はこの足音を知っている。

「桃花」

 私は部屋の中に向かって呼びかけた。返事はなく、足音だけが続く。

 どうしてという気持ちと、やっぱりという思いが、私の中で交錯した。

「桃花、おかあさんだよ」

 やはり返事はなかった。

 私は戸に耳をくっつけて、中の音を貪るように聞いた。足音は間違いなくこの中でしている、と思った。

 私の手が戸にかかり、そして力なく垂れた。この戸を無神経に開けてしまったら、この足音は消えてしまうような気がした。

 夜が明けるまで、私は廊下にしゃがみ込んだまま小さな足音を聞いていた。

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