第五話
火曜日もとても出勤できるような状態ではなく、会社にもう一日休む旨の連絡を入れた。幸い上司や同僚は私に同情的らしく、『なるべくこっちで何とかするから、出社はお子さんが落ち着いてからにしなさい』という言葉を、ひとまずはありがたく、額面通りに受け取ることにした。
病院に行ったが、桃花の容態は変わらなかった。話しかけても体を触っても反応がない、ただ眠っているみたいな顔を見ているのがやるせない。
医師と話をし、やることもなくなって病院を出た。バスの窓から外を見ながら、また涙が出そうになった。ひどい無力感を覚えていた。
うっかりひとつ前のバス停で降りてしまい、家までのろのろと歩いた。ツツジの花が咲いている。暖かい風が頬を撫でる。今日はおさんぽ日和だ。ひとりでの「散歩」ではなく、桃花と手をつないでの「おさんぽ」にちょうどいい日。
ぼんやりと考え事をしていたせいで、後ろから足音が近づいてきているのに気づかず、突然肩を叩かれた私は飛び上がるほど驚いた。振り向くと、真っ黒な髪を乱し、ロングスカートの膝に手をついて荒い息を吐いている女性がいた。
「鬼頭さん?」
「はっ、はい……き、鬼頭です……」
どこから追いかけてきたのだろうか。地味で年齢のよくわからない格好は相変わらずだ。
「ご、ごめっ、ごめんなさい、すみません、その、お、遅くて、わたし」
そう言いながら彼女は私に人形を押し付けた。例によってUFOキャッチャーで取れるような、なんの変哲もないものだ。
「なっ、内藤さんの……その、お父さんに、聞きました。お子さんのこと……ずみません、おっ、遅くて、わたし」
鬼頭さんは泣いていた。大人がこんなに泣くところを見たことがないかも、というくらいで、私はひどく戸惑ってしまった。
近くの公園のベンチに座らせ、自動販売機でお茶を買って渡した。鬼頭さんは鼻をかみながら「すみません」と断って受け取った。改めて、悪いひとではなさそうだなと思った。
「この、人形の方は、その、わたしは専門ではなくって、作るのに時間がかかるんです」
だんだんと慣れてきたらしい、それでもまだたどたどしい話し方で、鬼頭さんは言い訳するように語った。
「その、何ていうんですか、本物の人間がいると錯覚させるためのものというか……おっ、お察しかと思うんですけど、時間が経つと効き目が切れちゃうんっ、ですけど」
突然むせ始めてお茶を一口飲み、それでもまだ落ち着かなくてぺこぺこ頭を下げる。
「あの、いいですよ。焦らなくて」
「す、す、すみま」
「人形を身代わりにする、みたいなことですか」
そう尋ねると、鬼頭さんはうんうんとうなずいた。私はいつだったか、首を引きちぎられて廊下に落ちていた人形のことを思い出した。あれも同じことを意図して、あの部屋に入れられていたものだったのだろうか?
「あの、さ、匙加減みたいな、ものがあって」
ようやく落ち着いてきた鬼頭さんが、途切れ途切れに話し始めた。「それが、その、上手くないと、騙されたことに気づいて怒るんです。その――ああいうものは」
「ああいうもの?」
「あの、な、内藤さんのおうちにいるもの、です。その、入ったらいけない部屋です、けど」鬼頭さんはまた一口お茶を飲む。「ふ、普段はあそこにいるん、ですけど、夜になると出てくるみたいで。わ、わたしも『見る』のは苦手で、わからないことが、多いんですけど。ふ、不動産屋さんには、家じゃなくて、撮影スタジオとか、倉庫の代わりとか、そういう感じにしたら、いいんじゃないかって、お、お伝えしたんですが、その、わたし、話、下手だから……」
「そんなことないですよ」
私は素直に否定した。少なくとも、私には彼女の言っていることの意味がわかる。鬼頭さんはほっとしたように、一瞬だけにこっと微笑んだ。こんな風に考えたら失礼かもしれないけれど、幼い子が心を許してくれたときのような喜びを覚えた。
正直、もう一度鬼頭さんに会ったら、彼女につかみかかってしまうかもしれない、と思っていた。どうして桃花を守れなかったんだと言って、八つ当たりをしてしまったかもしれない。でも、先手を打って(彼女にそのつもりはなかっただろうけど)大泣きされてしまったために、彼女に対する敵意のようなものが粗方消えてしまっていた。
「と、とりあえず、その人形、お、お渡し、します」
鬼頭さんは私に押し付けた人形を指さして言った。「あ、あの部屋に、その、入れておいてください」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、鬼頭さんもつられるようにしてぴょこんとお辞儀をした。
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