第三話
「あれー? ももちゃん、どうかしましたか?」
綾子さんにそう聞かれてしまうくらい、その後の桃花は沈み込んでいた。私に怒られた桃花は、私たちの部屋を出てリビングに駆け込み、綾子さんの腰にしがみついた。それからずっと、おかあさんの顔なんかどうやって見たらいいのかわからない、とでも言いたげにテレビを観ている。ずっとお気に入りのうさちゃんを抱っこしたまま、私の方を向いてくれない。
「何かへそ曲げちゃうことでもあったかな。リンゴ食べる?」
「いらない」
そっかぁ、と言いながらひとまず撤退してきた綾子さんを捕まえて、私は元夫を見かけたことを報告した。綾子さんが眉をしかめる。
「そう……こんなこと口にしたくもないけど、桃花ちゃんを勝手に連れ出されたりしたら困るね。気をつける。とりあえずしばらくは、そこの公園には行かない方がいいかもね」
「すみません。お願いします」
「いえいえ」
桃花の態度は、一時の不機嫌では収まらないようだった。単に「イヤなことがあった」というだけでなく、私への不信感を抱いてしまったように思える。それだけ「おとうさん」との別れは、この子にとって大事件だったのだろう。むしろこれまで父親をほとんど恋しがらなかったことの方が、不思議だったのかもしれない。
元夫の情報を共有した私たち大人も、どこかピリピリしていた。父が苦虫を噛んだような表情で、「交番に相談しに行くか」と言った。あの人を結婚相手として選んでしまったことを申し訳なく思った。
桃花は普段から懐いている綾子さんに貼りつき、いつものように家事をこなせなくなった綾子さんは「これは参った。今日は出前でも取っちゃおうか」と笑った。こんなとき、私はいつも彼女の強さに頼ってしまう。こんなことではこの家を出て行くなんて夢のまた夢だ。でも、元夫に出会ったことは、私にとってそれだけの打撃で、その分弱っていたのだと思う。
夜はさすがに、桃花も同じ部屋で寝てくれた。一日中むくれているなんて、本当に珍しいことだ。怒ったような顔で布団に入った桃花は、突然「おかあさん」と私を呼んで、布団の中で手をぎゅっと握ってきた。
「どっかいかないで」
ああ、この子は父親を失ったんだった、と思った。
私は小さな手を握り返した。
「どこにもいかない。お母さんは桃花とずーっと一緒にいるから」
日中気を張っていたせいか、いつもより深い眠りが訪れた。
この頃は足音を聞かずに済むように、桃花と一緒になるべく早めに寝てしまう習慣をつけていた。入眠が早かったのはそれが原因かもしれない。なんにせよ私が眠ったときは、桃花の手はまだ私の掌の中にあったはずだった。
明け方、なにか夢を見て目が覚めた。上ったばかりの朝日がカーテンの隙間から差し込み、室内をかすかに照らしていた。
桃花がいなかった。
私は飛び起きた。胸の中が厭な予感で一杯になっていた。部屋の中をろくに探しもせず、私は部屋を出て階段を駆け下り、足音をたててあの部屋に向かった。心臓が痛いほどドキドキして、自分の呼気が火のように熱かった。
あの部屋は、廊下の奥でぽっかりと口を開けていた。錠がかかっていない。扉も開いている。そして何もない畳の上に、横になった小さな背中が丸まっていた。
「桃花」
入ってはいけないという約束を忘れて、私は部屋の中に飛び込んだ。朝の冷たい空気が涙を冷やして、頬がひどく寒い。なのに頭の中は煮えくり返るようだった。私は何度も名前を呼びながら桃花を抱き上げた。
背後からドタドタと足音が近づいてくる。部屋の中にいる私の姿に気づいたのだろう、「ひゃっ」という声が聞こえた。綾子さんだ。
「ちょっ、と……どうしたの!? 美苗さん」
「綾子さん」私の声は情けないほど震えていた。「どうしよう。桃花が起きない。全然起きないの。どうしよう、どうしよう!」
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