第二話

 公園の車止めの向こうに、見覚えのある姿を見つけて、私の全身に鳥肌が立った。間違いなく別れた夫だった。

 それを認識した途端、頭の中に夫のパソコンの画面がフラッシュバックした。年端も行かない女の子たちの姿が並ぶ光景を、残念ながら私はちゃんと覚えていた。

 さっき食べた朝食が食道を逆流してくる。慌てて口を押えた私に、桃花が叫んだ。

「おろして! おとうさんだよ!」

 幸い桃花は、幼児用のブランコからひとりで降りることができない。私は桃花を抱え上げ、公園の外に向かって走り出した。背後から美苗ちゃん、と私に呼びかける声が聞こえた。

「おかあさん! おとうさんだよ! ほんとにおとうさん!」

 桃花は私が、お父さんに気付いていないと思っているのだろう。しきりにおとうさんおとうさんと繰り返す。私は桃花の声を無視し、わき目もふらずに走って、近所のコンビニに駆け込んだ。

 桃花を下ろし、両膝に手をついて荒く呼吸を繰り返す。肺が熱い。息が苦しい。

 窓の外に目をやった。夫の姿はない。

「あららら、どうかしました?」

 顔見知りの、四十代くらいの女性店員が声をかけてきた。「顔が真っ青」

 知っている人の声を聞いて安堵したのか、腕が震えだした。私はいつの間にかぽろぽろと涙をこぼしていた。家の中も外も安全ではないと思うと、足が震えて仕方がなかった。


 徒歩でほんの五分ほどの道のりだったけれど、結局電話をして父に迎えにきてもらった。あの家に戻らなければならないのが悔しかった。どうしてほかに逃げ場を作っておかなかったのだろう。

 車の助手席で事情を話すと、父は低い声で「そうか」と言った。

 家に着いても、ひさしぶりに姿を見たからだろう、桃花はしきりに「おとうさん」と繰り返した。

「なんでおいてきちゃったの? おとうさんに会いたい!」

 私をなじるような無垢な瞳に、私は今更ながら、離婚の原因をこの子に何と説明したらいいのかわからないまま、父親から引き離してしまったことを後悔した。今さらお父さんは悪いことをしたんだと言っても、桃花は聞く耳を持たなかった。この子は幼すぎて、まだ元夫のやったことの悍ましさを理解することができない。あるいは私の説明が下手なのか、その両方か。

 確かにあのひとは「いい父親」をやっていた。桃花はとても懐いていた――と思い出して、また吐きそうになった。警察から電話を受け取ったときの記憶が鮮やかによみがえる。やはり私は、あの男を到底受け入れることができない。

「ねぇおかあさん、おとうさんは? なんでおとうさんダメなの?」

「だめなの!」

 頭がカッと熱くなって、私はいつにない大声を上げていた。桃花がひるんだ様子で黙りこみ、一拍置いて顔が歪んだ。ああ来るなと思った次の瞬間、桃花は大声で泣き始めた。

 そのとき、私の胸をいっぱいにしていたのは怒りの感情だった。

(何にも知らないくせに)

 心の中で私が、私の声で叫んでいた。

(何でおとうさんなの!? 何にもわかってないくせに! おかあさんが悪いみたいに泣かないでよ! 私だって必死なのに、精一杯やってるのにどうしてわかんないの)

 苛立ちが黒い雲のように頭の中いっぱいに立ち込める。私は桃花を置いて、急いで部屋を出ると、トイレに閉じこもった。一旦離れたところに避難して、落ち着くまで我慢しなければ。そうしないと私は、桃花を怒鳴ったり、ぶったりしてしまうかもしれない。また涙がぽろぽろこぼれ始めた。

(どうしてこんなことになったの)

 私は両手で顔を押さえて、しばらくトイレの中で泣いた。

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