第四話
昼食のあと、桃花はお昼寝の時間だ。私は眠ってしまった桃花をひとりで部屋に残し、一階に下りた。まずは綾子さんと話をするつもりだった。
綾子さんはあの部屋の前にいた。引き戸を開け、空気を通している。空っぽの、怖ろしいものなど何もない部屋だとわかっていても、見るだけでついぎょっとしてしまう。私がいるのに気づいた彼女は、こちらを向いてちらっと笑った。
「ねぇ綾子さん。ちょっといい?」
私が声をかけると、綾子さんは「どうかした?」と言いながら引き戸を閉め、錠をかけた。
「あの――ちょっと、別の場所でいいかな」
正直、この部屋の前で「この家、何か歩き回ったりするよね?」などと聞くのは怖ろしい。綾子さんは私の視線が部屋の方を向くのに気づいたのだろう、
「もしかして美苗さん、この部屋のことが気になるの?」
と問いかけてきた。
「実はその……そうなの」
私は素直に認めた。「ねぇ綾子さん。夜中になると、この部屋から音がするような気がしない? ここだけじゃなくて、私たちじゃない誰かが家の中を歩き回ってるような気がするの」
改めて口に出すと、背筋がぞっとして腕に鳥肌が立つ。そんな私の様子を見て、綾子さんは場違いなほどほっこりと笑った。
「わたしはちょっとよくわからないなぁ。ねぇ美苗さん。美苗さんもおとうさんもおかあさんも――圭さんはそうでもないけど――ちょっと神経質になってると思うの」
綾子さんは、立て板に水とばかりに喋りだす。
「みんなこの家の近所に住んでて、長年この家の悪い噂を聞いてたんでしょ? だから何でもないことが気になっちゃうんじゃないかなって。そりゃ、一家心中なんて聞いたら気味が悪いよね。わたしだって不動産屋さんにあんなに念を押されたら、何にもないと思っててもこの部屋に入るのはイヤだもの。言われたとおりに空気の入れ替えだけしてる。でも、それってやっぱり気分の問題だと思うのね」
綾子さんはそう言いながら、私を伴って廊下をリビングの方に歩き出した。南側の掃き出し窓から明るい日が差し込んでくる。
「わたし、前のおうちよりもこのおうちの方が好きなの。前の家は美苗さんの生家だから、気を悪くしたら申し訳ないんだけど、でもここは広いから、みんなでゆったり住めるでしょう? 家族が多いってやっぱりいいことだと思うの」
「綾子さんはそういう大家族で育ったの?」
ふと尋ねると、「うん」と言って彼女は笑った。
「一時期は十人以上で暮らしてたの。でもみんないなくなっちゃった。家業も潰れちゃって、実家ももうないの。わたしには名前が残ってるだけ」
そう呟くように話す綾子さんは、ひどく寂しそうな顔をしていた。この人には「家族」にこだわる事情があるのだろう、そう思ったとき、彼女が私の袖をつかんだ。
「もしかして美苗さん、この家を出て行きたいんじゃないよね?」
静かな、それでいて重みのある声だった。
その時大きな雲が空を覆い、綾子さんの顔が翳った。私には彼女が一瞬、真っ黒い影のように見えた。
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