第三話

 その日の昼食は味がしなかった。

 あの後すぐに桃花が私を急かしに来て、母との話は切り上げざるを得なかった。でも「おばあちゃん」の顔になる直前、母は私にもう一度釘を刺すのを忘れなかった。

「絶対に内緒にしてよ」

 真剣そのものの顔だった。冗談などで言っているのではない、と思った。

 私は食卓を囲む母と綾子さんを交互に盗み見た。

 母の無神経に思える発言にひやりとしたことはあったけれど、ふたりの仲が悪いように見えたことはなかった。母は以前から「綾子さんは圭一にはでき過ぎたお嫁さんだ」とよく褒めていた。彼女に関する愚痴といえば、それこそキッチンの件くらいだ。「家のことを何でも仕切りすぎる」という以外の欠点(それを欠点と呼ぶならだけど)はないはずだった。

 綾子さんからも、母に対する不満はほとんど聞いたことがない。母のバイクにはいい顔をしていないらしいが(危険な乗り物だと思っているようなのだ)、逆に言えば不満らしきものはそれくらいだ。もっともそういうことは、義妹の私には言いにくいことかもしれないが――

 私は記憶の底を浚って、彼女が母に関して何と言っていたか思い出そうとした。

(わたし、おかあさんのことは、自分の本当の母親みたいに好きなの)

 何年か前、彼女がそんな風に言っていたことをふと思い出した。

 そういえば、綾子さんが里帰りをしたという話を、私は聞いたことがない。いくら祖母の介護や家事で忙しいといっても、十年のうち何度かはその機会があったはずだ。なのに里帰りはおろか、彼女の両親や兄弟姉妹、親戚の話すら聞いた覚えがない。それでいて苗字は実家のものを名乗り続けている――

「美苗さん、どうかした?」

 急に綾子さんに声をかけられて、思わずびくっとしてしまった。うっかり箸を落としそうになる私を、母が咎めるような目で見つめている。

「――どうって、何が?」

「なんだかぼーっとしてたから。疲れてるんじゃない? 平日は仕事だし、それにさっき、なんか変な人もいたんでしょ?」

「あら、変な人ってなんのこと?」

 母が口を挟む。綾子さんが「それがね……」と、さっき私が出会った女性の話をする。親しげに語りあう二人は、やっぱり仲のいい嫁と姑にしか見えない。

「いやぁーね。不審者かしら」

「うちは小さい子がいるんだから気をつけないと」と父が言い、母が「そうよねぇ」と返す。兄は黙ってご飯を食べながら、うんうんと細かくうなずいている。

 それにしても、母はずいぶん平然としているように見える。離婚を決めていると言いながら、大した役者だ。よっぽど腹を括っているのだろう。

(何かがぐるぐるベッドの周りを回るの)

 その言葉を突然思い出して、背中に冷水を浴びたような気分になった。やはり母も、この家には何かがいると感じているのだ。

「あららおばあちゃん、お顔についてる。桃ちゃんより赤ちゃんだねぇ」

 そう言いながら手を伸ばす綾子さんは、今日もにこにこと明るい。綾子さんも、この家で起こっている現象に気づいているのだろうか? この家にこだわったのは彼女らしいけれど、その理由は単に広くて皆で住めるから――それだけなのだろうか?

 綾子さんにちゃんと聞かなければ。彼女だけではない、父とも、兄とも話をしなければならない。

 実家を離れて暮らしているうちに、私は彼らとの間に勝手に距離を感じるようになっていた。でも、今はそんなものを気にしている場合ではない。家族がばらばらになろうとしているのだ。

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