第五話
「まさか」
自分の口から出た声は、やけに頼りなかった。
「ええと、そんなわけないでしょ。この家から出たら私、また家事を全部やらなきゃならなくなるのよ。桃花が熱を出したりしたら会社を休まなきゃならないし、それに夫のことだって心配だし」
やたらと理由を列挙する私は、まるで言い訳をする子どものようだった。正直、怖かった。綾子さんが初めて見せた表情が怖ろしかったのだ。普段のおっとりした顔の下から、本来見るべきではない彼女の裏側が見えたような気がした。
「ほんと、いつも感謝してるの。綾子さん、大変すぎやしないかって……」
「全然大変じゃないよ」
私の声を打ち消すように、綾子さんの声が廊下に響いた。
「毎日とっても楽しいもの。料理も掃除も洗濯も全部好きだし、おばあちゃんの介護だってもう慣れっこだし、桃花ちゃんはおりこうで手がかからないし。こんなに楽しいことばっかりでいいのかなって思うくらい」
私の袖をつかんだ綾子さんの手に、ぐっと力がこもった。「――もっと家族がいてもいいって、そう思うくらいなの」
笑みを浮かべた顔が、今は得体がしれないものに見える。
「そ、そう」私は彼女に微笑み返した。「ならよかった」
「もし本当に、この家に幽霊みたいなものがいたとしても、わたしたちが楽しく暮らしていたらきっと大丈夫だと思うの」
綾子さんはそう言って、私の袖をふわっと離した。
「だから美苗さんは、何も心配しなくて平気よ」
「――そう。ああ、私、桃花を見にいかなきゃ……」
私は綾子さんから逃げるように二階の部屋に戻った。桃花はウサちゃんを抱えて眠っている。あと数十分はこのままお昼寝が続くだろう。
(特に綾子さんには言わないで)
母がそう言った意味がわかる気がした。
たぶん綾子さんは、この広い家で家族が一緒に暮らすことができるなら、足音や何かのことなど無視してしまえるのだろう。何かが本当にいるにせよいないにせよ、彼女にはそれだけ強い意志がある。
(ほかの家に引っ越せたらなぁ)
私は溜息をついて窓から外を見た。この家と同じくらい――とはいかなくても、今いる全員が問題なく暮らしていけるだけの物件があれば、おそらく綾子さんは納得してくれるのだろう。でも、実際には難しい。貯金はこの家を買うときにあらかた使ってしまったそうだし、この家を売って費用を捻出するにしても、厭な噂が知れ渡っているこの家が高く売れるとは思えない。宝くじでも当たらない限り無理だろう。
見下ろした庭に、私はふと父の姿を見つけた。父は庭いじりが好きだから、植木の世話などをしているのかもしれない。それにしても、門扉のあたりには何か植わっていただろうか――
そのとき、私はようやく門扉の向こうに、先ほどの女性が立っていることに気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます