第十五話
綾子さんに具体的にどんな事情があったのか、兄は私に話さなかったし、私も聞かなかった。綾子さんは私の義姉ではあるけれど、それでもプライベートな部分に、迂闊に踏み込むことは避けたい。
何があったにせよ、子供が産めないことは、綾子さんにとって辛いことだろうと想像がつく。子供好きな彼女のことだ。忙しいなかで桃花の面倒をよく看てくれるのも、綾子さんにとってはむしろ慰めなのかもしれない――そう考えてしまうのは、私の甘えが過ぎるだろうか。
私たちの会話は、当の綾子さんが兄を呼びに来たことで中断された。いつもの朗らかな笑顔が、少し違ったものに思える。気の毒に思いながらも、私はなぜか安堵を覚えている自分に気づいた。
「美苗さん、よかったらお風呂入っちゃって。桃花ちゃんと一緒に入るでしょ?」
「ああ、うん! ありがとう」
綾子さんに声をかけられて、内心どきりとしながらも立ち上がった。
桃花の髪を洗いながら、ふと、私はさっきの安堵の正体に思い当たった。
私は綾子さんに子供ができないことにほっとしたのだ。彼女はまだ三十代後半だ。その年頃で妊娠・出産する女性は決して珍しくない。
もしも綾子さんに赤ちゃんができたら、今までのように桃花や祖母の世話はできなくなるだろう。家事だって普段どおりにできるかわからない。妊娠中は体調を崩しやすいものだし、産後は赤ちゃんのお世話で家事どころではなくなる。
もしそうなったら、これまで綾子さんが担っていた家内の仕事を、誰かがやらなければならないのだ。場合によっては、これまでのように働けなくなるかもしれない。私は心のどこかで、そのことを恐れていた。
「おかあさん、どうしたの?」
桃花が心配そうに私を見つめている。
「なんでもないよ」
私がこんな身勝手なことを考えていたと、桃花に知られたくなかった。
その日の夜中も、歩き回る足音は聞こえた。ふと、その音に既視感を覚えた。ここ数日、聞き慣れてしまったせいなのかもしれない。
私は布団をかけ直し、むりやり目を閉じた。
次の日は土曜日だった。
私は桃花に起こされ、庭でいっしょに散歩することになった。本当はもっと寝ていたかったけれど、娘と一緒に過ごす時間もとらなくてはならない。桃花は庭の花をとっては、私のところに運んでくる。「これなに?」「これなに?」と尋ねてくるが、私には花の名前がほとんどわからない。ただ、「何だろうね」とか「きれいだね」と答えるだけでも、桃花は満足そうだ。
開け放たれた窓の向こうからは、「もー、あの子はしいちゃんじゃなくて、も、も、か、ちゃん!」という綾子さんの声が聞こえる。祖母と話しているのだろう。相変わらず桃花のことを、昔の遊び友達か誰かだと思いこんでいるようだ。
心地のいい風が吹いた。いい季節だ。もう少し経てば、暑さが勝って外遊びも辛くなる。私は手元に置いていたデジタルカメラを桃花に向け、シャッターを切った。
「あっ」
聞き慣れない女性の声がした。
門扉の向こうに女の人が立っていた。綾子さんよりももっと小柄な人だ。真っ黒な髪を肩まで伸ばし、化粧っ気のない顔に黒縁眼鏡をかけていて、年齢がよくわからない。地味な色のシャツと長いスカートを履き、こちらを見つめていた。
「何かご用ですか?」
私はとっさに声をかけながら彼女に近寄った。見覚えのない女性だ。少なくとも近所の人ではないと思った。女性はおどおどと震えながら、それでも用事があるのか、「あのっ、あのっ」と繰り返す。
「何かごよ……」
もう一度問いかけた私の腕を、突然門扉ごしに彼女が掴んだ。
「なんでっ、な、なんでこんな、ひ、人がいるんですか!? わ、わたし、駄目だったのに、その、不動産屋さんにっ、駄目ですって言ったのに、なんで人が住んでるんですかっ!」
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