第十四話

「ああ、無言電話ね。最近あるのよ」

 そう言ったときの綾子さんは、びっくりするくらい平気そうな顔をしていた。ダイニングテーブルについてお茶を飲みながら、私は彼女に、さっきの無言電話について話していた。綾子さんはキッチンで野菜を切っている。

「そうなの?」

「うん。まぁただのいたずらだろうから、無言だなと思ったら切っちゃうの」

 おっとりしているように見えて、綾子さんはなかなかメンタルが強い。

「あっ、でも」

 と、なにか思いついたらしい綾子さんの顔が、急に曇った。

「綾子さん、何か思い出した?」

「いえ……あの、こういうこと言われたら嫌かもしれないんだけど」

 綾子さんはちらっとリビングの方を見た。開け放した引き戸の向こうで、桃花が折り紙をしている。綾子さんは調理の手を止めると、私の近くにやってきて声をひそめた。

「無言電話だけど……もしかしたら美苗さんの元旦那さんじゃないかと思って」

 背中を冷たい手で撫でられたような気分だった。綾子さんは私の顔を見て、「変なこと言ってごめんなさいね」と謝った。

「ううん、そんな――むしろ、ありうると思う」

 認めたくはないが、無視することもできない考えだ。この家に住む誰かに敵意を抱いている人物の仕業だとすれば、それが私の元夫である可能性は決して低くない、と思う。

 もしも桃花を連れ出されたりしたら……と思うとぞっとする。桃花にとっては、ついこの間まで一緒に暮らしていた自分の父親なのだ。声をかけられたら、ついていってしまうかもしれない。

「大丈夫、美苗さん!」

 私の表情がよほど思いつめていたのだろう、綾子さんが慌てて言った。

「日中は気をつけておくから。警備会社とも契約してるし、それにわたし、人の顔を覚えるのが得意なの。保育園で働いてた頃も、父兄の顔を覚えるのは早かったしね。桃花ちゃんにも、わたしに黙ってどこかに行ったら駄目だよって言ってあるの。呼びにきたのがお父さんでもお母さんでも、おばちゃんに声をかけなきゃ駄目よって」

 綾子さんが「お母さんでも」と教えてくれていることに、私は別の安堵を覚えた。いつかの真夜中、私の姿を借りた何者かが、桃花を呼びにきた――あの夜の恐怖はまだ鮮明に覚えている。

「わたしだって桃花ちゃんが危ない目に遭ったら嫌だもの。もちろん美苗さんもね」

 そう言って綾子さんは、私の手に自分の手を重ねた。


 兄が帰宅したのは夕飯の後だった。キッチンから綾子さんが玄関に向かう足音が聞こえた。

「おかえりなさい。お疲れ様」

「うん、ただいま」

 リビングの引き戸の向こうを、ふたりの影が通りすぎる。

「お風呂? それともなんか食べる?」

「んー、なんか軽めに食べられるものある? 風呂は後でいいや」

 世話を焼かれる兄の姿を見ていると、私の結婚生活にああいうシーンはなかった、などと思い出してしまう。それが悪いことだとは思わない。ただ思い出すと辛い。あの頃は本当に、平和そのものの家庭を築いていると思っていたのだ。

「おい」

 リビングの戸が開いて、兄が顔を出した。あまり子供好きな人ではないが、桃花が「おじちゃん」と呼ぶと、さすがに少し表情が緩むようだ。

「ちょっと」と手招きするのに呼ばれて向かうと、小声で「ゼリーいくつか買ってきたから、都合のいいときに食べな」と言われた。夜遅いから、桃花の耳に入らないよう気遣ってくれたらしい。

「ありがとう、明日もらうね。急にどうしたの?」

「いや、お礼。桃花ちゃんが来てから綾子が明るいんで、助かってるから」

「そう? だったらいいけど」

 やはり兄も、兄なりに綾子さんのことを気にかけてはいるのだろう。平日はあまり家にいないし、休日も何か手伝うわけでもないが、それでも綾子さんといるときの兄は表情が違う、と思う。うまく表現できないけれど、何というか幸せそうに見えるのだ。

「綾子ってさぁ」

 兄が急に声のトーンを落とした。一度唇を結んでもごもごと動かす。昔から言いにくいことがあるときの癖だ。

「何よ」

「いや、その。綾子って子どもは好きなんだけど、その――色々あってさ、妊娠できないんだ」

 胸を突かれるような思いがした。

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