第十二話

 人形はこっそりと捨てた。厭だったのだ。あれについて人を呼ぶのも、誰かに話すのも厭だった。とにかくどこかにやってしまいたかった。色付きのレジ袋に入れ、少し迷って通勤用のカバンに入れた。ゴミの日は明日だ。家の中のゴミ箱に捨てたら、明日まで同じ屋根の下で過ごさなければならない。出勤の際に持って出て、どこかのゴミ箱に捨てようと決めた。

 桃花がしゃがんでいる私の背中にしがみついて「おしごと休みにして」と泣き声を出した。ごめんね桃花、行かなきゃお仕事クビになっちゃうんだよ。その言葉がなかなか口から出ず、私は声を殺して泣いた。

 なんとか家を出た。人形は通りがかりのコンビニに寄った際に、「もえるごみ」と表示されたゴミ箱の中に放り込んだ。


 それから真夜中になると、また足音が聞こえるようになった。耳を澄ましていると、階下で同じところをぐるぐると回っているらしいのがわかる。きっとあの部屋の中だ、という確信がある。

 桃花はおねしょをするようになり、以前よりも暗がりを怖がるようになった。眠るときも灯りを点けっぱなしにしておくため、私の眠りが浅くなった。それでも真夜中、目を覚ました桃花に泣かれるよりはましだった。


「ねぇ、足音がするでしょ」

 あるとき、母が私にそう尋ねた。「二階でも聞こえる? 夜中になると……」

 私は首を横に振った。「聞こえない。何の話?」

「だから足音よ。桃ちゃんだって――」

「やめてよ」私は母の言葉を遮った。「私たち、ここで暮らしてかなきゃならないんでしょう? 再就職で収入が下がって、貯金もほとんど使っちゃって、今まで住んでた家だって売っちゃったんでしょう? だったらやめてよ。足音なんか聞こえない」

 思わずきつい口調になってしまう。母は私の顔から目を逸らし、口をつぐんだ。

 足音のことも、人形のことも、私は誰にも相談しなかった。両親にも兄にも、綾子さんにも一言も言わずにおいた。桃花にも「ひとに言ったらだめだよ」と釘を刺した。

 怖かったのだ。

 何かがこの家で起こっているということを、認めてしまうのが怖かった。

 仮にこの家を出て行ったとして、どうなるだろう? 桃花と二人暮らしを始めたとして、もしもあの子が熱を出したら、誰が面倒を看るのか? そもそも中途半端な時期に入れる保育園があるだろうか? 家賃や光熱費だって今よりもっとかかる。それに、元夫が何かしてこないとも限らない。もちろん、両親や兄夫婦をこの家に残していくことだって気がかりだ。

 今、この家を出て行くことは難しい。だったらあの部屋のことなんか、気にしていてはいけない。

 あの部屋のことさえなければ、私たちは幸せなのだ。

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