第十一話

 意外なことに、それから十日ほどが何事もなく過ぎた。真夜中に足音が聞こえることも、何ものかが桃花を連れ出しにくることもなかった。

 引っ越しの疲れが出たのだろうか、週の半ばに桃花が熱を出した。私は改めて、同居する家族のありがたみを思い知った。以前なら、私が休みをとって看病しなければならなかっただろう。もしくは、自宅からも職場からも離れた、病児保育を行っている施設に預けにいくか。そこだって必ず預けられるとは限らない。すぐ定員オーバーになってしまうのだ。

 でも、今は綾子さんが家にいる。母も平日が休みの時は頼ることができる。気まずい思いをして、会社に突然の欠勤連絡をせずに済む。そのことがどれだけ救いになっただろう。

 緊急時だけではない。仕事を終えて帰宅した後、ほとんど家事をしなくていいということも、私の負担をぐっと軽くした。帰ると温かい食事が用意されていて、家の中も居心地よく整えられている。昨日着たものはきちんと畳まれ、自室にまとめて置かれている。私は昼間会えなかった分、桃花の面倒をみていればそれでよかった。

 両親や兄が言うとおり、綾子さんは家事に手を出されるのが苦手らしい。何でも手際よくこなしてしまい、私などは手伝う隙がない。それでも申し訳ない気がぬぐえない私に、綾子さんは「美苗さんには、お外で馬車馬のように働いてもらわなきゃならないからね〜」と、わざと意地悪らしく言って笑った。

 あの部屋のことは相変わらず気がかりだった。それでも「やっぱりこの家に引っ越してきてよかったかもしれない」と思い始めていた。

 そんな折のことだった。


 真夜中、目が覚めた。桃花が私を揺さぶっている。

「どうしたの?」と尋ねて答えを聞かないうちに、すぐに何があったのかわかった。

 足音がする。

 それもかなり大きい。どんどんと荒々しく床を踏み鳴らすような音が、下の方から響いている。その時になって初めて、この部屋はあの「入ってはいけない部屋」に近いのだと思い当たった。真上ではないが、かなり近い。

「こわい」

 桃花が私に抱きついてきた。「だれかおこってるみたい」

 私もその足音から、誰かの怒りの感情を読み取っていた。

 確認しに向かうことなど思いもよらなかった。私たちはまた、抱き合ったままで朝を迎えた。

 いつの間にか明るくなった窓の外を見ながらぼんやりと目を擦っていると、桃花がぴょこんと起き上がった。

「もう音しないねぇ」

 桃花の声に私も「そうだね」と答えた。

「ちょっとお外出てみようか……綾子おばさんがもう起きてる頃だし」

「うん」

 引き戸を開けると、ちょうど目の前の廊下に何かが落ちていることに気づいた。

 人形だった。女の子をかたどった、布製の素朴なものだ。祖母のものだろうか……一瞬躊躇したが、私は人形を拾いあげた。

「やだっ」

 思わず口から悲鳴のような声が漏れた。

 拾いあげた人形の首が、手の中からぽろりと落ちた。人形の頭部は、まるで力まかせに引きちぎられたようになっていた。

 私の腰に小さな手が回された。桃花だ。私が何も言わないうちに、桃花はぽつりと泣きそうな声でつぶやいた。

「だれかおこってたね」

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