第十話

 疲れてはいたが、食後の片付けくらいはやった方がいいだろう。そう思ったのに、シンクの前に立った私を見た綾子さんは「いいからいいから」と、私からスポンジを採り上げてしまった。

「美苗さん、今日は疲れたでしょ。桃花ちゃんと一緒にリビングで遊んでて」

「いいの? 全部お願いしちゃって」

「いいのいいの。じゃあ、ついでにおばあちゃんも見てあげて」

「いつもこんな感じなんだよ」と父が言った。「家のことは、綾子さんが何でもやっちゃうから」

「そうよ~、おうちのことはわたしに任せて。その代わり皆さんには外で稼いできてもらいますからね」

 綾子さんはお皿を洗いながら朗らかに笑った。

 リビングで桃花を膝にのせてお絵描きをさせながら、私は両親に「ちょっと綾子さん、大変すぎじゃない?」と話しかけてみた。

「いくら働いてないって言っても、この大きな家の掃除に、全員分の洗濯に、料理もするでしょ。おばあちゃんの介護も綾子さんがメインだし、今度からは桃花の面倒だって」

 こうやって挙げてみると、とにかくタスクが多い。いくら祖母がおとなしくて手間がかからないと言っても、すべてをこなすには一日中ほとんど休まず、動き回っていないとならないのではないか。

 両親は顔を見合わせた。母が私に言う。

「それね、私も何度か聞いてみたんだけど、綾子さんがとにかくそれでいいって言うのよ。自分のペースでやりたいって」

 父もうなずく。でも、と渋る私に、母は「あのね美苗。私、この家で一度もご飯作ったことないの」と言った。

「鍋も菜箸も包丁も、どこにしまっているのかすら知らないのよ。自分の家の台所なのに、何にもわからないの。綾子さんが全部仕切って、全部やってしまうの」

 言い方に恨みがましさを感じて、私は喉の奥になにかつかえたような気分になる。「そんな不満があったのか」という同情に近い気持ちと、「そんな風に言うことないじゃない」という咎めるような気持ちに挟まれて、うまく言葉が出てこない。取り繕うように父が口を挟んだ。

「まぁ、綾子さんも困ったら相談してくれるだろうから。きっと大丈夫だよ」

「……そう」

 少し消化不良な気はするが、これ以上むやみに問い詰めるのもよくないだろう。本当に綾子さんが「これでいい」と思っているのなら、余計なお世話になってしまう。私がピリピリしたのを感じたのか、桃花が私の手をつついて「おかあさん」と呼んだ。

「なに?」

「けんかしない?」

「けんかじゃないよ」

 離婚騒動以来、桃花は争いの気配にひどく敏感になった。少しでも不穏なものを感じると、落ち着かなくなってしまうらしい。いけない、これでは今夜も悪い夢を見てしまうかもしれない。

 祖母は私たちのことがまったく気にならないような顔をして、のんびりテレビを観ている。桃花がそちらを見て「ねこちゃん!」と声をあげると、祖母も「ねこちゃんねぇ」と返した。テレビは地域のニュースを流しており、駅前の看板猫がいる喫茶店が映っている。

「ももちゃんも、もうちょっと大きくなったらこういうお店に行けるかな?」と母が桃花に話しかけ、家事分担の話はそこで終わってしまった。


 その夜、私は寝る前に桃花に念を押した。

「いい? 夜中にお母さんが桃花を起こして『どこかに行こう』っていうことはないからね。特に、あの一階の入っちゃいけない部屋に行こうって言うことは、絶対にないから」

「うん」

 桃花は真剣な顔でうなずいた。

 夜中に目が覚めませんように、と願いながら、私たちは眠りについた。

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