第九話
桃花を抱っこしたままいつの間にかふたりとも眠ってしまい、夜が明けた。
おかしな姿勢で寝ていたから背中が痛いし、疲れもとれていない。それでも今日は月曜日で、仕事に行かなければならないのだ。離婚や引っ越しに関するあれこれのおかげで、有給休暇はもうほぼ残っていない。
それでも起きるなり「おかあさん、しごとおやすみして」と桃花に言われたときは堪えた。きっと怖かったのだろう。でも、あれはどういうことだったんだろうか。
おかあさんがいった、とは。
桃花の言葉はまだ拙いけれど、日々聞いている私は大抵理解することができる。おそらく、誰かが桃花をあの部屋に連れて行ったのだ。彼女の言葉によれば「おかあさん」――つまり、私が。
身支度をしながら、改めて背筋が冷たくなった。私のふりをする何かが、桃花を呼びにきたということだろうか?
案の定、桃花は私と別れるのを嫌がった。綾子さんが半ば強引に抱き上げ、「大丈夫! おばちゃんとお人形さんで遊ぼうか」と気を逸らそうとする。祖母は困った顔でしきりに「しいちゃん」と呼びかけていた。私は「またね」と手を振って、後ろ髪を引かれる思いで車に乗り込んだ。
職場から何度か綾子さんの携帯に電話をかけた。彼女はそのたびに対応してくれ、「今ご飯食べてるところ」とか「お昼寝してる」などと報告もしてくれた。意外なことに、祖母と仲良くやっているようだ。
『おばあちゃんと人形で遊んでるの。お友だちみたいな感じなのかしらね』
綾子さんはそう教えてくれた。『その間に色々できるから助かっちゃう。桃花ちゃんが来てくれてよかったわ』
集中して仕事を終わらせ、定時を少し過ぎてから退社した。帰宅すると桃花が飛びついてきた。その後ろを綾子さんがついてきた。
「桃花ちゃん、とってもいい子にしてたから安心して」
にこにこしている綾子さんに、私は尋ねた。
「あの、桃花、あの部屋には行かなかった? 入っちゃいけない部屋に……」
「ん? 行ってないと思うけど……桃花ちゃん、行かないよね?」
桃花は力強くうなずいた。「こわいからいかない」
「――だって。やっぱり美苗さんも気になる? あの部屋のこと。まぁ、気にならない方がおかしいよね」
綾子さんは苦笑している。
私は意を決して、「あの」と話しかけた。平日に桃花を看てくれる人だし、あのことを話しておいた方がいいだろうと思ったのだ。
「ゆうべ、こんなことがあったんだけど――」
私の話を聞き終わった綾子さんは「やだ、ほんとに?」と言って顔をしかめた。
ほんとに、と言いつつ、私の話を頭から疑っている様子ではない。とはいえ超常現象を肯定するわけでもなく、
「桃花ちゃん、寝ぼけちゃったんじゃないかしら」
と言った。
「小さい子でしょ。環境がガラッと変わったから、どうしてもナーバスになると思うの。そしたら、変な夢を見ることもあるんじゃないかな。そのうち落ち着くと思うけど……わたしも気になることがあったら、美苗さんに報告するね」
「そう――かも。ごめんなさい、お世話かけて」
「いえいえ。気にしないで」
信じてもらえたかはわからない。でも、とにかく話を聞いてもらえてよかった、と思った。そのとき玄関のドアがガラガラと音をたてた。両親が仕事から帰ってきたらしい。
「そういえば圭さん、今日遅いみたい。皆揃ったからご飯の支度を終わらせちゃいましょうか」
綾子さんはそう言って立ち上がった。
桃花はお気に入りの大きなウサギのぬいぐるみを抱っこしながら、私の膝の上で、私たちの話を黙ってじっと聞いていた。
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