第八話
私は慌てて起き上がった。
「桃花?」
布団をめくり上げる。いない。立ち上がって部屋の明かりを点ける。
いない。
念のため押入れの中も覗いてみたが、やはり桃花の姿はなかった。
桃花はこわがりだ。こんな広い家の中を、真夜中にひとりでうろうろするなんてあの子らしくない。もしおねしょをしてしまったとか、何かのっぴきならない事情があったとしても、まずは私を起こすはずだ。
私はドアを開け、足音を殺しながらも急いで階下に下りた。何の疑いも持たず、細い廊下を目指す。私の頭の中には、あの「入ってはいけない部屋」があった。なんの根拠もない。桃花はあの部屋を怖がっていたはずだし、真夜中にあんなところに行くなんて考えにくい。それでも「あそこにいる」と思った。
灯りを点けると、廊下の先に小さな姿があった。
「桃花!」
桃花は右手を半ばあげ、空を軽く握ったおかしな姿勢で、閉ざされた引き戸をじっと見つめていた。私の声を聞いたとたん、その肩がびくんと跳ねた。顔がこちらを向く。大きく目を見開いた顔から、さっと血の気が失せた。続いて右手、私とは反対側の方を向き、それから声を上げて泣き始めた。
「桃花!」
私が駆け寄ると、桃花は必死にしがみついてきた。顔を押しあてられた肩が、みるみる涙で湿っていく。
私は引き戸を見た。やはりしっかりと閉じられている。錠もしっかりと閉まっている。よかった、と胸を撫で下ろした。この部屋に桃花が入ったのではなくて、本当によかった。
私は桃花を抱き上げると、二階の部屋に戻った。戻る頃には桃花の様子もやや落ち着き、泣き声も止んだ。
「何でひとりであんなところに行ったの」と私が尋ねる前に、桃花は「おかあさんがいこうっていったの」と言った。
「おかあさんといったの、おかあさんが」
「わたし? 桃花、おかあさんっておかあさん?」
わけがわからないままにそう尋ねると、桃花は大きくうなずいた。
そのとき、背中を撫で上げられたような悪寒が私を襲った。
私はさっきの桃花の、不自然な姿を思い出していた。右手を半ば上げ、軽く握ったようなあの格好は、私にもなじみ深いポーズだった。
あれは、誰かの手をつかんでいるときの姿だ。
「おかあさんがいこうっていったの」
桃花がもう一度泣き始めた。
私は小さな体を抱きしめていることしかできなかった。
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