第五話

 目が覚めるととっくに朝日が昇っていた。一足先に目を覚ました桃花が、横向きになった私の肩を叩いていた。

「おかあさん! おきて!」

 時計を見るともう九時に近い。なるほど寝坊をしてしまった、と急いで服を着替えて階下に向かった。

 古い家だが、ダイニングキッチンはリフォーム済みで明るく、設備も新しいものが揃っている。大きなテーブルには朝食の支度がされており、目玉焼きの載った皿にはラップがかけられていた。

「あっ、おはよう美苗さん」

 ダイニングとつながった洗面所の方から、綾子さんが顔を出した。ぱたぱたとスリッパの音をたてながら、こちらに向かって歩いてくる。

「疲れてるんじゃない? もっと寝ててもよかったのに」

「ううん、今日中に片付けをやっつけちゃわないと」

「引っ越しって大変よねぇ。あっ、洗濯機回しちゃっていい? 普通に洗ったらまずいものとかないかしら」

 すでに一度洗濯機を回した後なのだろう。綾子さんは湿った服でいっぱいの籠を抱えている。そういえば彼女が何でもやってくれるので、めっきり家事をすることがなくなった、と母が言っていた。

「大丈夫。ごめんなさい、何でもやらせちゃって」

「いいえー、全然大丈夫。手伝ってもらうより、自分のペースでできた方が楽なの。コーヒーとかこの辺に置いてあるから適当に使って。パンはこっち。桃花ちゃんも食パンでいい?」

「しかくのがいい」

「じゃあやっぱり食パンだ。これ? お利巧さんだねぇ」

 綾子さんは桃花と、それから私にむかって笑いかけた。

「綾子さん、子供の扱い上手ね」

「そう? むかし保育士してたからね。ちょっとの間だけど」

 小さい子供が好きなの、と言って綾子さんは笑った。そういえばいつだったかそんな話を聞いたことがある。確か、兄との結婚に伴って退職したのではなかったか。

 そのとき、廊下の奥から祖母がゆっくりと歩いてきて、綾子さんの袖をひいた。

「なぁに? おばあちゃん」

 祖母は「んー」と不明瞭な言葉を発しながら、なおも甘えるように綾子さんの袖を引っ張る。

「わたしねぇ、洗濯物をぉ、干してくるね」

 綾子さんがゆっくり話しかけると、祖母は納得したらしく「うん」とうなずいて、手を離した。

 とても平和だ、と思った。窓から太陽の光が差し込み、部屋中を明るく照らしている。

 夜中あんなに怖ろしかったことが、まるで嘘のようだった。あの足音を聞き、階下を見に行ったこと、それら全てが夢だったのではないか。そんな気さえした。


 朝食や洗顔などを済ませ、荷物の片付けにかかった。桃花は私の周りを暇そうにうろうろしており、こう言っては可哀想だがいささか邪魔だ。「下でテレビでも観てる?」と聞くと、「おかあさんがいい」と首を振る。

 まぁ、この広い家の中で一人になりたくないというのもわかる。父と母はそれぞれ出かけているし、綾子さんは忙しい。祖母は子供に返ってしまっているし、兄はまだ寝ているようだ。そもそも、すすんで子供の世話を焼きたがるような人ではない。

 作業はひどくゆっくりと進んだ。幸い桃花は、早めに探し当てたおもちゃの箱をかき回している。しばらく作業に没頭していると、ふと「おとうさん」という声が私の耳に届いた。

「なに? ああ、これか」

 桃花が手に持っていたのはお絵描き帳だった。白い紙の端に、不格好だが一応それとわかるウサギが描かれている。私ではない、別れた夫が描いたのだ。

 私は夫の人の好さそうな顔を思い出していた。「いいお父さん」と言われるような人だった。桃花をお父さんと引き離してしまったことは、この子にとって残酷だっただろうか。

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