第三話
幸いにも桃花は、新しいおうちも、環境の変化も受け入れてくれそうだった。祖父母や伯父夫婦に囲まれて嬉しそうですらある。
「桃花ちゃんが来てくれてよかったわねぇ。やっぱり子供がいるっていいわね」
母は目を細めて桃花を眺めている。兄夫婦に子供がいないから、桃花は唯一の孫だ。一緒に暮らそうと言い始めたのは、孫恋しさのせいかもしれない。
その気持ちはわからないこともないが、それでも「お兄ちゃんのところに子供がいないから」と口に出したときは少しヒヤッとした。食器を片付け始めていた綾子さんが、ちらりと母の方を見たような気がしたからだ。
私にはこの義姉が、子供を持たないことを気にしているのかいないのか、正直よくわからない。綾子さんから直接愚痴を聞いたわけでなし、私の余計な心配かもしれない。それでも同世代の既婚の友人が「なかなか子供ができない」と愚痴るのを聞いているとき、私はいつもひっそりと綾子さんのことを思い出していた。
結婚とタイミングを合わせるようにしてぼけ始めた祖母の面倒を、十年近く看ているのは綾子さんだ。
「おばあちゃんは家でぼんやりしていることが多いの。本当に大人しい人だってヘルパーさんが驚くくらいなのよ。おとうさんたちもよく手伝ってくれるし、お風呂はヘルパーさんが来たときにやるからね。主な仕事はトイレと食事の手伝いくらい」
いつだったか綾子さんがそんな風に言っていたことがあるけれど、仮にそのとおりだとしても大変なことには違いない。仮に子供が欲しいと思っていたとしても、その願望を叶えられる状態ではなかったのではないか。
「お兄ちゃんのところに子供がいないから」という言葉は、もしかすると彼女にとって残酷な刃ではないだろうか――そんな心配をしてしまう。もっとも私にしたところで「うちは大丈夫だから」という両親や綾子さんの言葉を鵜呑みにして、祖母の介護にはほとんど手を貸したことがないのだから、今更心配などしたところで迷惑なだけかもしれない。
「おばあちゃんが子供みたいなもんだからねぇ。はい、お口ふきましょう」
綾子さんはいつの間にか視線を切り替え、祖母の介助をしている。
このところ、祖母は自分のことを小さな子供だと思っているようだ。綾子さんのことはお母さん、私のことは自分の姉だと思い込んでいるらしい。桃花のことは「しいちゃん」と呼んでいたから、幼少期の友だちと勘違いしているのだろう。
「ももかなの! も、も、か!」
桃花は三歳児なりに意地を見せて訂正するが、祖母は「しいちゃん」と言ってにこにこしている。
しっかりものだった以前の祖母を思い出すと寂しいけれど、穏やかなぼけ方でよかった、とも思った。少なくとも罵詈雑言を吐いたり、暴力をふるったりするタイプではなくて幸いだ。たとえ悪気はないとしても、桃花はきっと傷つくだろう。
入浴を終えると桃花はすぐにうとうとし始め、なんとか歯磨きとトイレまで終わらせたが、割り当てられた部屋に入る前に寝落ちしてしまった。夜も遅いし、何より引っ越しで疲れたのだろう。
私も疲れていた。移動や片付けに勤しんでいたから、もう夜の十時をとっくに過ぎている。大人が寝るには少し早いが、眠くて仕方がない。
部屋はオフホワイトの壁紙に板張りの洋間だが、床の上に直接布団を二組敷いた。ベッドだと寝ている間に桃花が落ちてしまうのだ。桃花を寝かせ、私も隣の布団に横になって一息ついているうちに、ついうとうとと寝入ってしまっていた。
目が覚めた。
電気を消し忘れたせいで、部屋の中は煌々と明るい。壁にかけた時計はもう夜中の一時近くを指している。ぼやけた頭で(歯を磨かなければ)と思った。
部屋のドアを開けると、斜め向かいに二階の浴室がある。そこに向かおうとしたとき、階下から何か音が聞こえた。
足音のようだった。誰かが歩き回っている。
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