第二話

「すごいでしょう美苗みなえさん。もう掃除だけで大仕事よ」

 私と桃花が「井戸の家」に引っ越した日、綾子さんはそう言って笑った。

 綾子さんは私の兄嫁だ。苗字は三輪坂みわさかという。兄夫婦は内藤ではなく、この名字を名乗っている。

 兄と綾子さんは両親と祖母と同居していたため、私たちよりも半月ほど先にこの家に引っ越した。彼女に会うのは何か月ぶりだっただろうか。

 綾子さんは私よりも確か七歳上だが、朗らかな表情のせいかずっと若く見える。小柄で丸顔の可愛らしい人だ。てきぱきと動き回るのは相変わらずだが、ふっくらしていたはずの輪郭が何だか痩せたような気がする。急に体型のことを指摘するのは失礼だと思い、その場では何も言わなかったが、体調が悪いのでなければいいなと思った。

 それはともかく、確かに綾子さんの言う通り「すごかった」。昭和のレトロ感漂う和洋折衷の家――いや、お屋敷といっても大袈裟ではないだろう。二階建ての家屋は部屋数も多く、ホテルが開業できそうなほどだ。気味の悪い噂は気になるけれど、一方でこんな家に住むかと思うと胸が躍った。

 私たちの割り当てられた部屋よりも先に、綾子さんは例の「絶対に入ってはいけない部屋」を見せてくれた――といっても、もう日が暮れかけていたから、私たちが見たのは閉ざされた木の引き戸だけだ。私には何の変哲もない戸に思えたが、桃花には木目が人の顔に見えるらしく、怖がって私の後ろに隠れた。

 引き戸の上部には簡単な打掛錠がついていて、他には錠前がかかっているわけでも、お札が貼られているわけでもない。ただ打掛錠は、私でも手を伸ばさないと開けられないくらいの高さについていたので、これなら桃花が勝手に開けることはないだろう、と私は少し安堵した。

「ここが『絶対に入ってはいけない部屋』なんで……なの?」

 私はあえて言い直した。「義理だけど姉妹だから」と言って、綾子さんは私に敬語を使われるのを嫌がる。

 綾子さんは満足げに微笑んでからうなずいた。

「まぁ、入ったところで本当に何にもないのよ。六畳の、正方形の小さな部屋でね。畳が敷いてあるだけなの。家具も窓もないのよ。わたし、一日一回はここを開けて風を通すようにしているんだけど」

 それでも足を踏み入れたことはない、と綾子さんは断言した。

「だって不動産屋さんがあんなに念を押すんだもの。気味が悪いじゃない。それにルールを破ってひどい目に遭うっていうのは、定番のホラー展開でしょ」

 綾子さんは少し冗談めかしてそう言ったが、その実きちんと決まりを守っているということは、決してばかにしているわけではないのだろう。

「桃花ちゃんも、このお部屋は絶対入っちゃ駄目だからね」

 綾子さんが腰をかがめて桃花に話しかけると、桃花も「こわいから入らない」と答えた。

「えらいねぇ。さ、それじゃふたりのお部屋に行きましょうか。あと水回りとか……すごいのよ、二階にもお風呂があるの。二世帯住宅でもなさそうなのに」

 綾子さんは明るい口調で言うと、さっと引き戸に背を向け、足早に廊下を歩いていく。

 綾子さんは「あまり働いた経験がないから」と言って自分を卑下することもあるけれど、少なくとも私は、彼女を聡明で常識のある人だと思っている。その人がここのルールを一笑に伏すことなく、真面目に守っているのには、それなりの「理由」があるのではないか――そんなことを考えながら、私は桃花と廊下の先へ進んだ。

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