井戸の家
第一話
離婚したとき、元々実家を頼るつもりではなかった。
といっても、家族仲が悪かったわけではない。実家からでも通勤は可能だから、仕事に支障があるというほどでもない。ただ、実家には両親のほか、兄夫婦と祖母が暮していて、このうえ私と娘の
どこかにアパートを借りようかと検討していたところ、両親から「もっと大きな家に移るから戻っておいで」と誘いを受けた。
私は三年ぶりの職場復帰だし、桃花は熱を出しやすい子だ。親の手を借りられるのはもちろんありがたい。
でも引っ越し先を聞いて、私は思わず逡巡した。「あの家」だというのである。
実家からほど近い場所に「井戸の家」と呼ばれる家がある。井戸があるわけではなく、元々住んでいたのが「
なんだか貴族でも住んでいそうな立派な家なのだが、私が子供のころに一家心中で住人が全滅したのだ。カルトにでもかぶれたのだろうか、「おかしな神様」を拝んでいたと言われている。真偽のほどは不明だが、とにかく一家心中があったことは確かだ。
後には立派な邸宅が残った。何度か人が住んだがすべて居つかず、気が付くと空き家になっているというのが常態化していた。家がなかなか売れないことに業を煮やした不動産屋が拝み屋を雇ったが、家の前に立った瞬間「これは無理です」と断られてしまった――なんて噂もある。
なんと、父の退職金と兄夫婦の貯金をはたいて、その家を買ったというのだ。
「ひとつだけ注意すれば大丈夫だからって、不動産屋さんが言うから」
言い訳のように母が言うには、なんでも「絶対に入ってはいけない部屋がある」のだという。襖を開けるにしてもせいぜい一日に一度、外が明るいときに風を通すくらいにするように、と何度も念を押されたそうだ。その時点で相当不気味だと思うのだが、中古とはいえ、とんでもない格安価格で大きな家を購入できたのも事実だ。
しょせんは証拠のないうわさ話だと思う気持ちもあった。私は現実に追われていた。職場では仕事にかかっていると新人の女の子が内線を回してきて、気の毒そうに「保育園からです」と告げる。熱を出した子供はすぐにお迎えにいかなければならず、離婚した夫には頼れない。何度も急に早退すれば、職場での肩身はどうしても狭くなる。それでも仕事を辞めるわけにはいかない。帰宅すれば家事に追われ、私はへとへとになっていた。
「その部屋さえ開けなければいいから」
それさえ守れば、皆と生活することができる。人の手を借りることができる。
考えた末、私と娘は新しい実家に――あの家に引っ越すことになった。
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