第138話 上陸

Hさん(52)は深夜3時ごろ、L字を逆さにした形状の防波堤で釣りをしていた


逆さにした縦棒の先端が港に直結している


港はコンクリートの斜面になっており、丸太を噛ませて引き上げられた船が一艘、ひっそりと佇んでいる


山を越えた奥にある、かなり寂れた漁港だ


Hさんは逆L字の先、波止の左端から外湾に向かって竿を出していた


港には幾つか街灯が立っているが、防波堤の先までは光が届かず海は真っ暗だ


Hさんは頭にライトを装着しているが、餌をつける時に手元を照らすためのものだ


この日の波は穏やかで、ぼんやり月明かりに浮かぶ波間にも動きはない


1時間ほど経った頃、沖の方から楕円形の丸いものが近づいてくるのを発見した


初めは大きな漂流物かと思っていたが、だんだんと近づくにつれ、それが黒い生き物のように思えてきた


それは波間に波紋を立てながら静かに近づいてくる


やはりそうだ、海面に出ている部分には、黒い毛のようなものがびっしり生えている


Hさんは、どこか近くの山から猪か何かが泳いできたのかと思ったが


波間に出ている部分だけでも1.5、いや2メートルほどのサイズ感だ


熊かもしれない・・・


Hさんが完全に生き物だと断定した浮遊物は、ついにHさんの足元の壁際にたどり着いた


そしてそこから向きを変えると、防波堤沿いに右へ、ゆっくりと進んでいく


暗くて海中は見えないが、犬掻きのように泳いでいるのだろうか


ただ、ここで違和感に気付いた


この生き物、発見した時から現時点まで、顔らしき部分を見ていない


つまり一度も息継ぎをしていないような・・・


これは何か、貴重な瞬間に遭遇しているかも知れないと思ったHさんは、既に仕掛けを回収し、竿を置いていたが


携帯で撮影しようと胸ポケットに手を伸ばしかけて、やめた


向こうもこちらに気付いているかも知れない、と思ったからだ


それが後々、自分に災いをもたらさぬとも限らない


今更遅いかもしれないがHさんは、身を低くして黒い物体を追いかける


やがて黒い物体はL字の角まで来ると、また進路を変え、今度は縦長のルートに沿って進み始めた


意図的に岸に向かっているのだろうか?


Hさんは身を低くしながらそれを追いかけていたが、岸に近付くにつれて街灯の明かりが強くなり


自分の姿が煌々と映し出されて丸見えなことに危険を感じ、これ以上は近付かないほうが良いと判断した


その後は黒い物体が岸壁につくまで、身をかがめたまま、じっと目で追う


そして遂に、黒い物体は岸に着いた


と、その瞬間、丸みを帯びて海面に出ていた部分がふっと消えた


黒い毛皮のようなものが波間に漂っている


そしてその浮遊物の横からヌーッと現れた黒いものが、二足歩行で岸に上陸した


立ったそれは身を屈めると、波間に漂う黒い皮?を引き寄せてぐるぐる丸めている


丸めたものを右小脇に抱え、港の斜面を駆け上がる


あたりを少し見回すと、段差のあるコンクリート塀を乗り越え、集落の方へと去っていった


・・・それから30分ほどHさんは防波堤で身を潜めていた


自分が気付かれていたかどうかは判らない


が、撮影はやめておいてよかったと思う


釣り道具を車に積む間もキョロキョロと辺りを見回しながら、生きた心地がしなかった


車を発進させ、帰路に着く


密漁者にしては大掛かり過ぎる・・・


あれは工作員の類いではないのか

あるいは訓練中の自衛隊隊員とか?


だがそれなら、自分のような一般釣り人に一部始終を観察されるほど、脇が甘いだろうか・・・


Hさんはそれ以上、考えるのをやめた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る