第136話 最後の愚痴

車を持たないEさんはその日、N部長の運転する車で現地商談に向かう予定だった


ところが朝、部長から電話が掛かってきて、10分ほど遅れそうだと言う


客先との大事な商談でもあるし、念のため先にタクシーで行きますとEさんは返答した


結果、予定時間30分前には現地に到着して部長を待っていたが、10分前になっても来ない


電話も数回入れたが「電波の届かないところに・・・」とアナウンスが流れる


仕方無く、先方に詫びた上で部長抜きで交渉に入ることにした


途中で何度かブーッブーッと着信があったがそのまま交渉を続け、昼休憩になった


着信は会社からで、N部長が現地に向かう途中、居眠り運転のトレーラーが赤信号で交差点に進入し


N部長の車と衝突、助手席側から突っ込まれた部長の車は大破し、部長は意識不明の重体との事だった


・・・半年後。


部長は特に後遺症もなく、無事退院した


この間、Eさんは何度も見舞いに訪れたが、そのたびに献身的に寄り添う奥様の姿が印象的だった


いつか自分の築く家庭も、パートナーとはこうありたいと思ったものだ


それから10年後・・・


N部長は定年退職を迎えた


送別会のあと部長に誘われ、部長行きつけのスナックに2人で参上した


「どうしても君に話しておきたいことがあってね」


「何ですか改まって」


「うん。実は、あの10年前の事故の事なんだが」


あの日部長は、朝からヒステリーに捲し立てる奥様を持て余していた


どうしてこう、毎日毎日言い争わねばならんのだ


俺の何が気に食わないというのだ


イライラしながら時計を見ると、もうEさんを迎えに行かねばならない時間だ


だがここで会話を切り上げ強引に出掛けてしまうと、帰宅してからがもっと面倒だ


捲し立てる奥様を制し、Eさんに電話を掛けると、タクシーで先に行くと言う


結局N部長は、15分遅れで家を出た


いつからこんなにギクシャクしだしたのか・・・確かに毎晩毎晩帰りは遅いが、外で女を作って遊んでる訳じゃない


生活のために、遅くまで接待も頑張ってるのじゃないか


俺だって休みたいさ


幸い子供はいない

いっその事もう、別れてやろうか?


イライラしながら、とある交差点に進入した時


左側に気配を感じて振り向くと、赤信号を無視したトレーラーが突っ込んでくるのが目に入った


ここからはゼロコンマ数秒のN部長の思考だ


今すぐブレーキを踏めば、すんでのところで衝突を回避できるかもしれない−


だが回避せず突っ切れば左側からの衝突は免れない−


どの程度の事故になるか想像も付かないが、ここで交通事故に遭えばあのヒステリックな妻に心配を掛けることができる−


そして俺という存在を、改めて見直すのではなかろうか−


ここまでを瞬時に脳裏に巡らせた部長は、ブレーキを踏むことなく追突覚悟でアクセルを踏んだ結果


「・・・君も知っての通りだよ」


「なんと・・・そんな事とは・・・なら私も今だから言います。私、もし乗っていたら、即死でしたね」


「それだよ。どうしても話しておきたかったのは」


「何ですか?」


「あの日もし君が助手席に乗っていたら、俺はブレーキを踏んだだろうか。それとも君を乗せたまま突っ込んだだろうか」


「怖いこと言わないでくださいよ笑 回避されたに決まってますよ」


「そうだろうか・・・君、覚えてるかな。あの日の商談、君は前日の夕方まで俺の方針に反対してたよな。で、俺が事故って来なかったから、君の方針で話を進めて・・・それからの君は、やる事なす事上手くいって、トントン拍子で出世して・・・今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、若きやり手の執行役員だもんなぁ」


「何が仰りたいのです?笑」


「社長の憶えの良い君は、次から次と改革案を出し、それを実行してきたが、その過程で多くのベテラン社員をないがしろにして隅に追いやり、辞めさせて・・・Y社との合併の時もそうだ、あれは君が先方に売り込んだらしいじゃないか。まあ、あくまでも噂だけど」


「私に御不満があったなら、もっと早くに仰って戴ければ良かったのに」


「そうだよな。こんな最後の最後に言うなんてな。まあでも、最後だから言えるってのもあるんだよ。あの日、君が助手席に乗っていて、君だけがグッチャグチャになってたら、会社は残ってただろうし、俺も今日、辞めてなかったかも・・・なんてな笑」

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