第108話 彼の消息

土曜日の深夜3時過ぎ


Y課長(47)を乗せたタクシーがマンション前に停まった


土日をゆっくり休みたかった彼は


金曜夜、いや土曜の深夜1時半までオフィスで残業し、月曜の憂いを無くす努力をした


実はこの3ヶ月ほど、まともに休んでいない


だからこの土日は久しぶりの連休なのだ


体が悲鳴をあげていた


会社の業績が芳しくないこともあり、業務の変革が次から次と実行に移されたが


それらは上層部のアピールのためだけに行われ


その意味のない会議やデータ収集・資料作成は、ことごとく無駄に終わっていた


だからダメなんだ、と叱責されるのは中間管理職のYさんのような立場の人間だ


我々の指示通りやっていれば結果は自ずと付いてくる、そうならないのはお前が部下に趣旨を理解させないからだと。


仕事をしたいのに会議室に呼ばれ、毎日同じような責苦を受けた


上司の、私はやってますアピールのためだけに。


何度もこんな会社、辞めてやろうと思ったが


大学生の息子の学費、マンションのローン


小言ばかり言う、共働きの妻


とてもじゃないが「辞める」などと口にはできない・・・


暗証番号を押し、エントランスを入る


ボーっとした頭のままエレベーターに乗り、6階を押す


エレベーターの液晶パネルに「3:25」と時刻が表示されている


"俺は毎日、何をやっているんだろう・・・"


6階に着いた

エレベーターを降りる


エレベーターホールから共用廊下に出て右を向くと


4室先のYさんの玄関前に男が立っている


ギョッとしたYさんは体中からサーッと血の気が引くのを覚えた


こんな深夜に、誰だ?!


スーツ姿のその男は、玄関扉の前で俯き加減にジーッと立っている


あっ?!

あれは俺だ!!


そしてYさんにはそれが、玄関を開けて入るかどうか迷っているように見えた


Yさんは意外な行動に出た


踵を返しエレベーターホールに戻ると、6階に止まったままのエレベーターのボタンを押し、乗り込んだ


1階を押す


マンションを出ると、振り向いて6階を見上げる


あいつはまだ扉の前で躊躇しているのだろうか


Yさんは歩いて10分かかる、最寄り駅に向かって歩きだす


あいつに任せよう

俺はもう、戻らない



土曜日の朝、10時。


なかなか起きてこないYさんを起こそうとして、布団に横たわる夫の異変に気づいた奥さん


救急車で搬送されたYさんは脳梗塞と診断された


後日、意識が回復してポツリポツリとYさんが語ったところによると


自分はあの朝、始発電車に乗って何処か遠くに行ってしまったという


その後会社を辞めたYさんは、そんな意識障害が残ったまま、今も治療を続けている


【彼の消息】

作詞:松本隆

作曲:安部恭弘

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