第3話

 夜明けが近づいていた。

 車はいつしか海辺を走っている。

「ここは、どこじゃ?」

「荒浜っつってな。子供の頃、よく遊んでたんだ。波が荒すぎて、毎年死人が出るんだぜ」

 車を停めて、外に出る。辺りに建物はない。見渡す限り広がった暗い野原を、そよそよと風が渡っていく。

「この辺りも、たくさん家があったんだがな……」

「なくなっちゃったの?」

「ああ……もう十年になるか……あんときは大勢死人を見たなぁ」

 確かに、ここなら誰も止めに来ない。死体もきっと海が綺麗に飲み込んでくれる――。

 ざく、と砂を踏む。その力強い感触が頼もしい。ざくざくと波打ち際に向かって歩を進める。

「おまえさ、名前、教えて」

「……アン……」

 渾名をつけられてから、嫌いになった名前。

「いい名だな。世界の始まりと終わりだ」

「正午殿、そなたは?」

「湯浅翔悟だ」

「本名であったか」

「漢字が違うけどな」

「正午殿は、何故死ぬのじゃ?多額の借金でもあるのか?」

「まあ、そんなようなとこかな……」

 湯浅はポケットからタバコを出してくわえた。黒い海が群青へと、ゆっくり色が戻っていく。

「家族も親戚も家も全部流されてよ……ここに残っても仕方ねぇし、地元を離れたんだ。それまでろくなことやってこなかったしな。だけど気がついたら、もっとろくでなしになってた」

 ――最低――ひとごろし――!あんたなんか、人間のクズよ――!!

 何日も泣き腫らした目で罵倒する女が、頭に焼き付いて離れない。寝ても覚めても追いかけてくる罪悪感。

「なんだか疲れちまってな。俺が生きてるだけで誰かが不幸になるなら、いっそのこと……俺が死んだって悲しむやつもいねえしな」

「そんなこと……!」

 アンは思わず叫んだ。そんなことない、と言いかけて、はっとする。

(わらわが死んで、悲しむひと――)

 湯浅はそんな心中を察したのか、くしゃりとアンの頭を撫でて続けた、

「……今日会った女と一発やったら、そのままこの世から消えちまおうと思ってた。でも……俺はあんたに死んでほしくねぇ」

 水平線にひとすじ、オレンジの光が差した。

 群青色の空がみるみる薄紫に染まっていく。

「朝なんて、来なければいいと思っていたのにな……」

 アンは呟いた。ぐんぐん姿を表していく太陽から目を離せない。その向こう側では太陽を見送って夜を迎えた国があって。

「ちょっと綺麗だろ?」

 振り向いた湯浅の顔は、逆光で見えない。でもきっと微笑わらっていた。

「私も、正午さんに死んでほしくない」

 アンは湯浅の隣に並んで、その手を握った。

「しょーがねぇ、生きてやるかぁ!一緒に!」

「致し方ない、わらわも生きてやろう!」

 いきなり叫んだ湯浅につられて、アンも叫ぶ。清々しい笑いが込み上げてくる。

 いつの間にか、真っ青な空が頭上に広がっていた。

 湯浅はアンに囁いた。

「おまえさ、もうちょっとしたら、絶対いい女になるから。そしたら、やらせ……いや、抱かせろ。な?」

「約束じゃ」

 湯浅はアンの肩を抱き寄せる。恋人でも親子でもない、名前のない愛しさを込めて。

「あんたは俺の、女神だよ」

「え」

 あまりの賛辞にアンは赤面する。

「だからもう醜いとか言うな。許さねぇぞ」


 世界の始まりと終わり。

「どういう意味?」

 車は一路、北へと走る。どこへ行くかなんてわからない。どこだっていい。ただ、生きると決めた。

「神社の狛犬、知ってるか?」

 アンはこくりと頷いた。

「あれが、アとウンて言うんだよ。あとは自分で調べろ、学生」




*****



「湯浅……翔悟ぉっ……」

「えっ」

 ひと気のない路地で唐突に名を呼ばれ振り向いた瞬間、ドスッ、と鈍い衝撃が走る。

「みゆ……き……?」

 湯浅は胸元に飛び込んできた女の頭を、そっと撫でる。彼女の両手は、湯浅の身体に深々とナイフを突き立てていた。

「あんたのせいで、父さんも母さんも死んだのよ!この人でなし!あんたなんか、地獄に落ちればいい……!」

 怒りと悲しみと憎しみとが入り混じった瞳で、深雪、と呼ばれた女は湯浅を睨みつけた。

「やっ……ぱり……俺が生きてると、誰かを不幸にしちまう……」

 湯浅は女の両手を包み込むと、ナイフから引き剥がした。これ以上、このひとを苦しめるわけにいかない。こんなろくでなしのために、犯罪者にさせるわけにはいかない。

「深雪、おまえは俺を刺してない。いいな?」

 湯浅はコートの裾でナイフの柄を拭って、よろよろと女から離れる。

「いいか、俺は、おまえになんか殺されやしねぇ。もう、忘れろ!いいな!!」

 荒い息の合間、言い聞かせるように叫ぶ。

 ――やっぱ命運、尽きてたんだな――でももう、無駄に死を選んだり、しねぇぞ、俺は。

 何故歩けるのか不思議だった。人間、脆いようでいて、生きようと思えば意外と動けるらしい。

「……ごめん、アン。おまえのこと抱きたかったぜ……いい彼氏、見つけろよ……」

 そのまま湯浅は、雑踏の中に消えていった。


『今日午後二時頃、〇〇駅前の雑居ビルの事務所にナイフを持った男が押し入り、中にいた従業員と争いになりました。この事件で従業員数名が重軽傷を負ったとのことです。また、押し入った男はこの事務所の元従業員、湯浅翔悟容疑者40歳で、病院で死亡が確認されました。事件のあった事務所は貸金業を営んでいたと見られ、事件との関連を調査中です……』


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朝なんて来なくてもいいような夜に サカキヤヨイ @sakakiyayoi

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