第2話

「よし。じゃあ、うまいもんでも食いに行こう」

 切り替えるように、湯浅は言った。星は見えないが、街はこれでもかと光り輝いている。

「え?」

「その、なんだ、コミケだライブだはちょっと無理だが、レストランなら任せとけ。俺も丁度、今夜はいい飯を食いたかったんだ」

 冥土の土産にな、と言いそうになってやめた。

「わらわ、その、手持ちが」

「いいんだよ。男には大人しく奢られとけ」

「殿方に馳走になるなど……夢のようじゃ……」

 やべぇ、変なこと教えちまったかな。まあいいか。

 さっきまでべそを掻いていたのが嘘のようにきらきらと輝く瞳に、湯浅は思わず笑いを漏らした。

 ――まあいいや。嬉しそうだしな。

 ネットで予約したのは、すぐ近くのホテルの最上階にあるレストランだ。

「湯浅様、お待ちしておりました」

 うやうやしく礼をするウェイターに湯浅が店の奥を指差しながら何事か尋ねると、「かしこまりました」と窓際の席に通された。あんぐりと口を開けた少女が後ろからぴょこぴょことついていく。窓の外は溜め息の出るような夜景が広がっている。

 やがて運ばれてきた料理に、少女はまた目を丸くする。

「なんと美しいのじゃ……」

「眺めてないで食えよ。冷めるぞ」

「おお……お皿が……あったかい……」

 いちいち感動する姿が新鮮だ。そっか、こいつまだ中学生か、と湯浅はあらためて思う。

「美味じゃあ〜」

 ひと口食べては眉尻を下げ、濃いアイメイクの真ん中の小さな目を輝かせている。それを見て、湯浅はまたふふっと笑った。

 ――こんなふうに笑ったのなんて、いつぶりだろうか。

「この世界には、このように美味なものがたくさんあるのじゃろうなぁ……」

 少女がうっとりと言う。

「ああ、そうだな……」

 正直、高級フレンチに今更感動などなかった。しかし贅沢な料理はそれだけで幸せな気分になれる。なにより独りじゃない。死に取り憑かれた二人の、最後の晩餐だとしても、今夜だけはままごとのような幸福を味わってもいいだろう。

 かちん、とフォークを置く音がした。ひと口だけ残ったデザートを前に、少女が瞳を潤ませていた。

「でも、だめなのじゃ……おいしいものも、きれいな服も……無力じゃ……明日がまた来ると思うと……」

 キィン――耳鳴りがする。襲いかかるフラッシュバック。嘲笑、侮蔑、クソブス触んなこっち来んな臭えキモいキモいキモいキモい――早く死ねば?――

「――おい」

 湯浅の声が聞こえているのかいないのか。白い指先がかたかたと小刻みに震えて、見開いた両眼は焦点がおかしい。

「もう――もう、明日など――来る、前に、息が、とまっ――」

 ――止まってしまえばいいのに。


 人間の精神は脆いようで意外と頑丈だ。狂ってしまいたいような現実を前にしても、どこかで平静に戻ろうとする。心を病むのは苦しいが、狂えないまま生きるのも苦しい。畢竟、この世は苦痛に満ちている。

「大丈夫か?」

 なんとか落ち着きを取り戻した少女を抱きかかえるようにして、湯浅はレストランを出た。

「平気じゃ。さあ正午殿、ゆこう」

 行くってどこへ、と言い掛けて(そうだった、そもそもセックスが目的だったんだ)と思い至る。だが、湯浅は迷っていた。このまま娘のような年齢の少女をホテルに連れ込んで良いのだろうか。死ぬ前に女を抱きたいと思った、その気持ちは変わっていない。だがこの少女を帰して、別の女を探す気にも正直なれない。第一、この少女は自殺するつもりらしい。大人しく家に帰るとは思えないし、死ぬ前に誰でもいいからセックスしたいなんて考える娘だ。湯浅は時計を見た。午後十時。年頃の娘が繁華街で危険な目に遭うには十分すぎる時間帯。仮にこの後死ぬとしても、最後の思い出が陰惨なものであってほしくはない。そう思ってしまうのは、親心に似た感情が芽生えているのだろうか。口の端に自嘲が漏れる。子を持ったことなどないというのに。相手は所詮マッチングアプリで知り合った、行きずりの女なのに。

「……のう、正午殿、もしかして、やはりわらわとはできぬか?」

 ぽつりと少女が言った。

「そんなこと……」

 湯浅は答えに窮した。若すぎて腰が引けているのは事実だが、自分を大事にしろなんて言ったところでこの少女には何も響かないだろう。明日にはこの世から消えようとしているのに、惜しいものなどないに違いない。湯浅だってそれは同じだった。だが、少女の口から出た言葉は湯浅の思いとはかけ離れたものだった。

「そうじゃな……どうせわらわなど、抱く価値もない人間なのじゃ……わかっておるのじゃ……このような醜い姿でひと様に抱いてもらおうなど、身に過ぎた愚かな願いだったのじゃ……」

 湯浅は唇を噛んだ。自分を大事にしろなんて、言えない。誰も大事にしてくれない自分など、愛せるはずがない。

 湯浅は少女の白い手を掴んだ。まだ幼くて柔らかくて、男の手を握り返すことも知らない手。

 そのまま目についたラブホテルに入っていく。

 少女をベッドに仰向けに寝かせて、湯浅は上から覆いかぶさった。少女は抵抗しない。自分を見下ろす湯浅を、硬い表情で見返している。

「……ほんとにいいのか?」

「よい」

 少女はそう言うと、両眼を閉じた。

 湯浅は少女の頬をひと撫でして、唇を重ねた。

 固く閉じた唇の間を舌でなぞり、挿し入れる。ふわりと小さな唇が、湯浅の舌でやんわりと開いていく。ぴくり、と少女の身体が反応する。

 小さく並んだ歯列は、やはりかっちりと閉じている。湯浅は舌に力を入れて、少女の歯をこじ開けた。瞬間。

「んっ……」

 少女の喉から高い声が漏れた。

 湯浅は身の内が一気に昂るのを自覚した。そのままぐいぐいと舌を挿し入れる。口の奥で侵入者に萎縮している小さな舌を捉えて、絡め取る。息を止めていた少女がたまらず熱い吐息を漏らし、ぴったりと合わさった湯浅の口に流れ込む。少女の呼気が肺を満たし、湯浅は恍惚とした。

「やべぇ……」

 ぼそりと呟いて、湯浅は唇を離した。

「ちょっ……と、ごめん。無理」

 湯浅はベッドに突っ伏した。恥ずかしくて起き上がれない。顔も上げられない。

「ごめん、これ以上は」

「なぜじゃ?ここまで来たというに。やはりわらわでは勃たぬか?」

 いや、むしろはちきれそうだ。じゃなくて。

「勃つとか言うな!その顔で!もう、おまえは……っ」

「ブスで申し訳ないのじゃ……」

「ブスじゃねぇよ。かわいいって」

「うそじゃ。世辞など要らぬ。ではなぜじゃ。なぜ無理なのじゃ。顔など見ずに、好きに犯せば良いだろうが!」

 少女は半泣きで駄々をこねる。それがなんともかわいらしい。

「なんでって……」

 言えるか。いい年をして、キスだけでイキそうになったなんて。

 湯浅は溜め息をついて起き上がる。

「……おまえなぁ、いい加減にしろ。おまえは若くてかわいいよ。すっげぇ、したい。でも、たぶん今俺とやっても、おまえは気持ちよくないと思う。だからもう少し生きろよ。我慢して。そんで、まあ、あと三年とか五年とかしてから、好きな男とやるんだよ。その方がぜってー気持ちいいから」

「いやじゃ。もう生きていとうないのじゃ。三年なんて待てぬ。それに何年経ったとて誰もわらわなど見向きもせぬわ」

「ガタガタうるせぇなぁ。じゃあ俺が抱くよ。だから大人しく待ってろ!」

 ――ああ。

 言ってしまって、湯浅は頭を抱えた。

「……嘘。今の忘れて」

「やはりわらわなど」

「ちげぇよ。俺はなぁ……クソッ、おまえと一緒だよ!今日が命日のつもりだったのに」

「どういうことじゃ?」

「言葉通りだよ」

「……つまり、正午殿も今夜、死ぬのか?」

「だから三年後の約束はできねぇ。ごめん」

「では、共に死のうぞ、正午殿」

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