朝なんて来なくてもいいような夜に

サカキヤヨイ

第1話

 フラッシュバック。

 体育が終わって教室に戻る。制服に着替え、授業中外していたマスクを取り出すと、そこにはぱっくりと開いた巨大な魚の口。アンコウの口だ。への字の大きな口と、左右に離れた小さな目を持つ深海魚。小さく描かれた吹き出しには「わらわ、アンキモちゃ〜ん♡」。次の授業は始まってしまうし、替えのマスクなんてない。仕方なく、その日はひたすらうつむいて過ごした。

 放課後、掃除のために椅子を机に上げる。ひっくり返した座面の裏側。うざい、声キモい、顔キモい、死、ドブス、アンコウ、アンキモ、ヲタ女、わらわwww、死ねば?、メンヘラ、じゃま、マジ邪魔、くせえ、息吐くな、息するな、しゃべんな、うざすぎ、キモすぎ、消えて。たくさんの色のチョークで書かれた、たくさんの筆跡の、たくさんの。

 ――悪意たち。

 巨大な手に脳を掴まれたように、視界が凝縮する。脳内に反響する、クラスメイトの笑い声。たまらず教室を飛び出して、その後のことは覚えていない。

 もう、いい。こんな毎日は、もういらない。明日が来る前に。消えてしまおう、この世界から。


 よし、死のう。

 タバコの箱を取り出し、残りが一本しかないのを見て、湯浅翔悟は決めた。こいつを吸ったら死のう。思えばだいぶ悪あがきしたが、あがけばあがくほど逃げ場がなくなっていった。そろそろ潮時だ。なに、そんなに悪くない人生だったじゃねぇか。もう十分生きた。クソ高ぇタバコともおさらばだ。最後の一本を口に咥え、箱をくしゃりと握り潰す。

 火をつけかけて、ふと、手が止まった。この世に未練なんかない。財布に残った金で最後にうまいもんでも食えりゃ、それでいいと思った。だが、いざ死ぬとなると、小さな欲求が湧き起こった。それは物凄く矮小で俗物的で、限りなく人間的な欲望。潰れた箱にタバコを戻す。

 もう一年以上、女の肌に触れてない。最後くらい、いいじゃねぇか。誰でもいい、なんか綺麗な女を、いや綺麗じゃなくてもいいから、若い女を一晩だけ抱かせてもらって、そんでもって。

 ――死のう。


「……あれか?」

 湯浅はもう一度、メッセージを確認する。『北口の噴水の前の、右端のベンチにいます』

「あれ……だよな」

 件のベンチに座っていたのは、湯浅の予想よりも遥かに若い少女だった。一瞬、声を掛けずにこのまま帰ってしまおうかとも考えたが、気を取り直してベンチに近づく。考えてみれば別に失うものなどない。仮に彼女とこれからすることが犯罪だとしても。

紅猫姫あかねこひめさん?」

 少女は顔を上げた。こってりと塗り固められた目が、無邪気に湯浅を見上げてくる。

「はい!正午さん、ですか?」

 白い丸襟の着いた、ピンクの地に赤い小花柄の、少女趣味なワンピース。白いくるぶし丈のソックスに、ころんと丸いフォルムの赤い靴。アイメイクは派手だが、ファンデーションはそんなに濃くはない。少女の隣に座ると、つるりと滑らかな頬を眺めながら、湯浅は訊いた。

「あんたさ、あの、十八歳じゃないよね?いくつ?」

「……十四」

「中学生かよ!」

 完璧、淫行じゃねーか。何やってるんだ俺は。呆れた湯浅はタバコを取り出しかけて、「ああ、クソ!」と舌打ちをしてまたポケットに戻した。

「すまぬ……やはり、こんなわらわなど、抱きとうはないか……」

「いや、あんた自身がどうこうってんじゃなくて」

 しょんぼりとうつむいてしまった少女に、慌てて湯浅は言った。

「あんたはかわいいよ。できることなら、したいよ。俺は。だけどな」

「わらわと、したいのか!?」

 ぱっと少女が顔を上げた。アイメイクの奥の、すがるような瞳。

「いや、あんたこそ、いいのか?こんなおっさんで」

 言いながら湯浅は記憶をたどる。初めて登録したマッチングアプリというやつに、確か年齢も書いたはずだ。男性の年齢は否応なしに公開される。誰でもいいと思っていたので嘘偽りない歳を書いた。セックスしたいとも正直に書いた。相手の年齢が嘘でもいいと思った。最年少の十八歳を選んでおけば、サバを読んだところで二十代だろう。十分若い。

 ――だが、まさか上にサバを読まれるとは想定していなかった。

「正午殿ならば、よい」

 少女は湯浅の顔をまじまじと眺めて言った。

「何だ、小遣い稼ぎか?俺、そんなに払えねーよ?」

 湯浅は財布を出した。これくらいの年齢の娘は幾らくらい欲しがるのだろうと思いながら、指先で中身を数える。だが、その上にそっと白い指が置かれた。その手の幼さに、湯浅はどきりとする。

「金銭など、欲しゅうはない。どうせ使いみちなどないのじゃ」

 湯浅は黙って財布をしまった。自分が浅はかな大人に見えてきて、情けなくなる。

「……わらわ、もう生きていとうなくなってしまった。こんな醜い顔で、頭も悪くて、小学生の頃からずっといじめられてたのじゃ。中学でようやくできた友が、レミ氏と内藤氏じゃ。ようやくわらわにも、お昼を一緒に食べてくれる友ができた。だが、うっかり怒らせてしまってのう……わらわ、そんなつもりではなかったのじゃが……秘密にしていたわらわの紅猫姫のアカウントがクラスの皆に知れてしまい……もう誰もわらわと話してくれぬ……わらわが喋ると、皆の耳が腐ると言われた……ソシャゲのアカウントも荒らされて……わらわには、もう……もうどこにも居場所がないのじゃ」

 少女の作り物のような高い声がぽつぽつと語る話を、湯浅は黙って聞いていた。学校が嫌なら行かなければいい、という時代ではないらしい。家にいても、一人の世界に籠っていても、彼らは容赦なく土足で上がり込んで踏み荒らすのだろう。

「だから、今夜はわらわの持っている一番きれいな服を着て、この世界とお別れすることに決めたのじゃ」

 吹っ切るように夜空を仰いだ少女の顔は、痛々しいほどに清々しかった。星は街の灯りが強すぎて、見えない。

「だがの、最後に、一度だけ、どうしてもしてみたいことがあって」

 少女は足元に視線を落とす。今度は何か躊躇うように声が小さくなる。くるくると変わるその表情に、湯浅はいつしか見入っていた。

「わらわ、死ぬ前に、エッチしてみたかったのじゃ」

 小さな小さな声で、少女は言った。

「このワンピースはな、母に隠れてこっそり買ったのじゃ。だが一度も着てなくてのう。一度でいいから、着てみたくて」

 死ぬ前に。

「……もっとたくさん着てあげたかった。ブスに見えないように、お化粧してみたかった。テレビで見たきれいなレストランで、おいしいもの食べてみたかった。彼氏とかほしかった。バイトして、お金貯めて、コミケとかライブとか行ってみたかった」

 だんだん涙混じりに上ずっていく声が、切ない。

「大人に、なりたかったな……」


 引き絞るような、消え入りそうな声で、少女は泣いた。それは彼女がもうすぐ手放そうとしている命の、か弱すぎる叫び。小さすぎて誰にも届かない。

 はらはらと涙を落とす少女の小さな頭を、湯浅は黙って撫でた。

 

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