二〇二一年・ロスト
放っておけば生えてくる……、という想像は妥当なものだと思った。世の中を見回してみるに、頭髪に悩みを抱えている男は数限りなくいるが、見た限り男の抜け毛や薄毛の進行の仕方については、一定の法則がある。
すなわち、額の側から後退していくタイプか、頭頂部、つまり旋毛の辺りから減少していくタイプか。
耳の後ろから髪が失われていくタイプの薄毛進行というのは、まあ承が知らないだけでひょっとしたらごくまれにあるのかもしれないが、極めて可能性は低いと考えてよかろう。これが例えば他の髪で隠せない部分であったなら、承も冷静ではいられなかっただろうし、目に見えて額が広くなっていたりしたなら、自分の足で育毛剤を買いに走っていたはずである。
あんまり考えすぎては却って酷くなる。そう自分に言い聞かせて努めて冷静さを保とうとはしているのだが……。
「広がっていますね」
患部を覗き込んで、中寉は言った。承の髪に穴が開いて一週間が経過している。中寉は結局あの翌日に安くはないはずの育毛剤を買ってきて、毎日それを承の頭皮に擦り込んでくれているのだが、新しい毛が生えてくるどころか余白の面積は拡大傾向にある。
「ご自身でもご覧になりますか」
「……いい」
発見の翌日、中寉に患部の写真を撮られた。頭皮というものは髪が生えている限り直射日光が当たらず、従って白いのだということを知った。他のところは髪がもさもさ生えているのに、そこだけ真っ白な、生まれたての頭皮が露になっていて、僅かに何本か残っている黒い毛がとても痛々しい。その髪もまもなく抜け落ちてしまったようだし、中寉に指摘されるまでもなく患部が広がっていることには自覚があった。
「これ以上酷くなる前に病院に行きませんか」
中寉はとても憂鬱そうな声だった。
「皮膚科さんだったら、そんなに混んでいないように思うのです。病院は感染対策もしっかりしてくれているでしょうし」
行った方がいい、……拡大傾向にあることを認めるならば、冗談抜きで中寉が言ったように全体に広がって、やがて頭髪の全てを喪失することになってしまうかもしれない。承が過去に見た知人の円形脱毛症は突然に生じ、それがどんどん広がっていくということはなかったようであるから、同一視すべきではないのかもしれない。
だとすると、これは、進行性の脱毛症。
……自分が禿げる、という事実と、承は向き合わざるを得なくなった。
若いつもりでいた。実際、加齢を感じたことなどいまのところ一度もない。中寉の無尽蔵とも思われる欲と互角以上に立ち回れるし、どんなに忙しくて疲れが溜まったとしても一日しっかり休めば回復する。三十代にはなったけど、俺はまだまだおっさんじゃないと信じて疑わなかった。
しかし、禿げるのだ。
承は、人の外見的な変化について悪く言うようなことはしないで生きてきた。それは生まれつきのことであったり、病気であったり。当人にはどうしようもないことであることがほとんどなのだから、ことさらあげつらう理由がない。これまで付き合いのあった人間の中には、髪の薄くなっていたり、あるいはもうすっかりなかったりしている者も少なからずいたし、それを認めがたく思うのか必死に隠そうと努めている者もいた。
あのハゲ。
そんな悪口を言ったことはない。なぜそれを笑いにするのか、笑おうとするのか。承は、別に利口ぶるわけでもないが、そういった連中には与しない。しかるに、いざ自分がそう言われる人間の側に立つこととなったとして、冷静でいることは難しいと気付かされた。自分を美しいなどと思ったことは一度もなかったし、中寉が(あるいは三嶋が)「可愛い」などという言葉で自分を評するのを聴いたときには、こいつどういう審美眼してるんだと思ったほどだが、それでも自分の外見が著しく変化することには恐怖と苦痛を覚える。
何より一番耐えがたく思うのは……、目の前に座り直して、
「マスター」
心配していない、と言ったくせに、今も不安そうな表情でいる中寉の側で、みるみるうちに若さを失っていく自分の情けなさだ。
「病院に行きましょう」
二十歳から二十二歳で少しも変化しない中寉は、もう五年、ひょっとしたら十年経ってもこういう姿でいるかもしれない。毎日顔を合わせている限りは気付けないほどの、ごく緩やかな変化の末に、やがてやけに綺麗なおっさんになる。
その隣に、禿げ上がって老けた男がいていいのか。
「マスターが禿げようが太ろうが僕には関係ありませんが、マスターが苦しんでいるところを見るのは辛いです」
真面目な顔で、沈痛な声で、中寉は言った。
言葉の途中で一瞬、血が沸騰しそうになったことを承は認める。
心配していない、と言っていた。実際、この男はちっとも心配はしていない様子である。そして今の言葉から類推するに、自分とは無関係な出来事として捉えている。さすがにちょっとぐらいは、ムッとしたっていいだろう。
そういえば中寉は承の髪に余白が出来た日から、ぱったりと承に甘えなくなった。枕を並べて眠りはするが、あの旺盛な欲はどこへ行ったのかと思うほど淡白である。承自身も心に空いた不安の孔を塞ぐことに専心しなければならなかったから、そういう類の欲は湧いて来なかったのだが。
禿げた男には魅力もないということだろうか。
「ちょっと遠いですけど、ここの病院」
しかし、生真面目な顔で中寉はスマートフォンを差し出した。この部屋から電車で十五分ほどにあるらしい皮膚科のホームページである。
「マスターのお言い付けの通り、病気については調べておりません。ですが、ここは清新医大の先生が診てくださるそうです。清新医大は、抜け毛の研究では一番だそうですから、きっとここであればマスターの症状に適した治療を行ってくださるのではないでしょうか」
承には、中寉の気持ちが判らなかった。急激なスピードで魅力を失っていく男を、心配しないと明言している。のみならずさっきは「関係ない」とさえ言った。
しかし、彼の顔を見れば承の中にある痛みを共有していることは明白だ。お前には無関係な痛みなのに。
「お願いします。明日のランチ営業が終わったら、一緒に病院に行ってください。マスター、本当はとても気にしていらっしゃるのでしょう。仕事中、何度も耳の後ろに手が行っておられました」
無意識だった。気にしないようにしている。触れれば、指先でまた毛が抜け落ちるかもしれない、だから、極力触らないように。
「無意識なのだとしたら、きっととても強い痛みを胸の奥に押し殺そうとしていらっしゃるのでしょう。マスターが辛いのは、嫌です」
承は、つくづく自分が嫌いになりそうだった。
紛れもなくいま承は、中寉を疑った。関係ない、……その言葉に、瞬間的ではあるが、腹を立てそうになった。それだけ自分に余裕がなくて、髪の毛だけではなくて理性的な思考能力さえ喪いそうになっているということなのだろうか。
関係があっては困るではないか。
俺が禿げようと、老けようと、それで苦しむのは俺だけでいい。中寉が禿げるのではない。だったらそれでいいことだ。しかし、関係してしまうのだ、……どうしても中寉は、この痛みを共有してしまうのだ。
中寉の心臓だって、本当は承には無関係なのだ。承がどんなに案じようとも、感覚の共有に努めようとも、あの恐ろしい頻脈に伴って中寉がどういう感覚を味わうのか、承には結局判らずじまいだった。
中寉は言ったものだ、……自分はもう、死んでしまうのだと。
中寉はその苦しさを承が共有したいと願っても、決して首を縦には振らなかっただろう。無論、承は自分でなくてよかったなどとは思わない。中寉の感じていた苦しみを自分の中に産み出して、同じほど苦しむことが承には当たり前に出来てしまうから。
「……ああ、わかった」
溜め息を吐いて、顔を両の手のひらで擦る。「まあ、治るのかどうか知らないけど、一応行くだけ行くよ、病院」
明らかに、安堵した表情を中寉が浮かべた。それから、彼は承の頭を抱き締める。
「暑苦しいぞ」
憎まれ口を叩いても、彼はなかなか腕を離そうとはしなかった。久しぶりに中寉から触ってきたな、と思うと悪い気はしない。
実のところ承は、中寉の鼓動を聴くのが好きだった。いまは落ち着いて、とくん、とくん、とくん、とくん、静かに、規則正しく脈を刻む中寉の心臓の音。いつまたあの危なっかしい発作が始まるかと怯えていたことを思い出す。俺が(そもそも本当にそういうものを備えていたとして)美しさを喪失しようと、こいつが生きていれば俺の明日は決まっているのだと、今一度承は丹念に思い直す。
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