二〇二一年・アイドンケア

 明日のことを考え始めると、どんなに疲れていても却って目が冴えてしまって、一時は不眠症のような状況にさえ陥った。何事にも鷹揚に構えているあのオーナーでさえ表情を曇らせているほどの日々だ、彼ほどの人物ではない承が苦しいのは当然だった。もうとうに眠っていなければいけない時間に、まだ承が起きていることを察知して起き上がった中寉はいつだって、承を抱き締めるのだ。それでもまだ足りなければ、承が止めるのも聴かずに承の身体中にキスをした。

 マスターは独りではありません。どんなときでも僕が一緒にいます。それでは足りないとお思いですか? どうか悩まないで、苦しまないで。僕はどんなときでもあなたの側に、健康なこの身体で生きています。

 囁きを這わせて、ほとんど強制的に承の体力を消耗させ、眠りに就かせる。やり方が健康的かどうかは専門家に意見を求めなければなるまいが、ひとまずそうやって精神的にしんどい時期を承は乗り切った。

 だから、俺は恵まれている。

「愛しています。マスター、愛しています。ああ嬉しい、僕は今日も生きているのです、マスター、この心臓はこんなに健康な鼓動を重ねてあなたの側に生きているのです!」

 明日のことを考えて不安になるならば、こう考えればいいのだ。……俺は中寉に「明日」をくれてやった、と。実のところブルガダ症候群に比べればWPW症候群は突然死に繋がるリスクは低い病気だった。無論「難しい病気ではない」と言うことは出来ないが、仮に中寉が承に出会わず、時おり誤作動を起こす心臓を抱えたまま暮らし続けていたとしても、彼が言っていたように「長生き出来ない」ということはなかったのではないか。それでも、自らが早死にすると信じて非常識な暮らしを選び、身を破滅させることを未然に防げたのだから、あの出会いは必要だった。承が中寉を愛し、彼の命を尊く重いものとして捉えたからこそ、今がある、そして当然、明日も中寉の心臓は鼓動をやめない。

 であるならば、十分ではないか。中寉が明日も生きていることだけ解れば、仮に明日またどんなトラブルが起きようとも、恐るるに足りぬ。

 中寉は幾度目かのキスで舌を求めた。承がそれに不承不承の顔で応えてやると、それだけで繊細な震えを肌に走らせる。あちこち被ったままの身体、……腕に足に腋の下、そして性器付け根の毛もきちんとした施術によって処理してしまった。実年齢と見た目のそぐわない身体は、もう承を求めて止まらない。熱、あるいは最早灼熱の焔とでも呼んでもいいものを纏っていながら、

「マスター、お座りになってください。頭を洗って差し上げます。それとも、先にお身体を洗いましょうか、隅々まで。ねえマスター」

 中寉はほざく。まだ余裕があるのだな理性的なのだななどと油断しては酷いことになる。この男は淫らで、それでいてさほど体力はないので、イニシアティヴを握らせないことが肝要なのだと承は学んでいた。

 座ると大体目の前に、こどものような形で欲深な表情を浮かべるものと正面から相対することになるのだ。無論、中寉はそれを存分に見せ付けることで、承の心に自分の纏う火を移すことを狙っている。

 髪にシャワーの雨が降ってきた。

「ぴゃっ……、ますっ、ますたっ、まっ」

 構わず、尻を掴んで引き寄せて、昂りを自らの口に繋いだ。こいつがこれぐらいの規模の身体でいてくれてよかったと、日々に繰り返し承は思う。もう一回りでもこいつの身体が大きかったら、それこそ身がもたない。中寉という男は運動が不得意で、体力もない、しかし輪郭からはみ出るほどの愛と欲を持て余して生きていて、一方で承の身体は人よりちょっとぐらいは強いという程度だから、どうにか対等以上に渡り合うことが出来るのだ。

「ひゅっ、たぁっ、あ、たまっ、あたま、あたま洗っ」

 これでうっかり中寉が手を滑らせたらシャワーヘッドが脳天を直撃することになるのだが、さすがに中寉もそこまで馬鹿ではない。身を捩ってシャワーをホルダーに収めたところで口から抜けた。当初の予定ではこのまま追い詰めて、あとは穏やかにシャワーを浴びるつもりでいたのだが。

「お前に任せておいたら明け方までシャワー浴びる羽目になるからな……」

「そんなぁ……、そんな酷いことしません、水道代だってもったいないです」

 中寉は酔った上で興奮すると、バスタブの中でないとえらいことになりかねない身体である。

「マスターは、僕が身体を洗うのはお厭ですか」

「別にそんなこと言ってないだろ。色々無駄遣いするのが厭なだけだ」

 後ろから抱きすくめて、反論は唇で塞ぐ。胴を拘束するためには左腕だけで十分で、フリーな右手は生殖のためには不向きな、しかし中寉自身の喜びのためにこそ、どれだけポンコツであろうと生えていなければ困るものを掴む。その場所を掌握してしまえばあとはもう、左手だって自由である。左の乳輪を摘まんで乳首に顔を出させて、指先で転がしてやれば、ひょっとしたら右手を動かす必要だってないのかもしれない。

「ます、たっ、ますたぁ……あ……あっ」

 上手ではない歌声で、それでも多くの人間を魅了する中寉である。中寉に恋をしろ、お前ら全員こいつの虜になれ、そして、……そして、この男の栄養となれ! そう念じながら、中寉の声の引き立つことを願って承はギターを奏でていた。かなり余裕のある話である。だって本気で中寉に恋をする男が現れて、熱烈に思いをぶつけて来ることがあったとしても、中寉は自分から離れないと信じているのだから。

 この、歌声よりももっといい、淫らな声を自分以外の誰かが聴くことになってしまったらどうするのだ。

「っンン……!」

 舌を伝って届くこの声の甘い味を、自分以外の誰かが。

 全身を激しく震わせて中寉は達した。その肌の痙攣が止まらない、承が構わず右手を、左手も、動かしているからだ。

「ひっ、ひっ、ま、っひゅ、たっ、ひんっ、ひんびゃいまひゅっ」

「全部出せ」

 過保護な包皮に隠されて、露出することに慣れていない果肉を指先で愛撫する。ただでさえ刺激に弱い場所を、過敏になっている状態で弄り回されて悲鳴を上げた中寉の鈴口から、高く噴水が上がった。

「ひ……っあ……あ……ぁ……はぁあ……!」

 ほとんど真上に射ち上げられたそれは当然の帰結として中寉自身の肌に降ることとなる。いま出さなかったとしても遠からず漏らすことは避けられない体質なのだから、身体や髪を洗い直す時間、バスタブの掃除にかける時間、そして水道とガスその他の節約のためには、心を鬼にしてこうするのが一番いい。

「……っていうか、どうなってんだろうなお前の膀胱」

 店でも年に一度健康診断を実施している。一度相談してみろと命じたら、中寉は恥ずかしがりながら「おしっこが近くて困っています」と問診の際、医師に言ったらしいのだ。

 どうだった、と訊いたら、「『遠いよりはいいです』と言われました」と不貞腐れていた。とりあえず何かの病気ではないらしい。考えてみるに、日常生活に差し障ることはないのだ。ただ興奮するとそうなってしまうというだけで、……つまり、犬に近い。

「うー……、マスターはどうひてそういう、酷いことをするんですかぁ……」

 恨めしい目に睨まれたが、苦もなくそれをやり過ごしてシャワーヘッドを取り、身体に浴びせる。二十歳の冷たい男であった中寉了は、二十二歳の甘えん坊になった。それが鬱陶しくもなければ厄介でもないものと映ることは、間違いなくこの男の顔と身体の造りによるところが大きい。もう十年以上会っていないそうだが、その点については中寉も両親に感謝するべきだろう。中寉は承に髪と身体を洗われているうちに少し機嫌を直し、彼が承の身体を洗う段になっては元の上機嫌に戻った。

 一度でもそうされることが嫌だと思っているのではない、際限なく続いてしまうのが色々と問題だという話をしているつもりの承である。だから全身を手のひらで洗う中寉を止めることはなかったし、過程で中寉の口へ一度達することもまた、予定の中に含まれていた。中寉は承に言われるまでもなく口を濯いでからキスを寄越した。

 甘ったるい時間であることは認める。ちょっと、自分には不似合いで、もったいないぐらいに甘ったるい時間である。三十一歳にもなって、こんな具合に思いが駆けることがあるとは知らなかった。三十代というのは、もっと大人で理性的で、しっかりしているものだと信じて疑わなかったから。

 比較的若く居られていることは、きっと喜んでいいのだろう。男も三十代ともなると、早い者だと白髪を持て余したり、髪が抜けていったり、体型や体臭にも加齢に伴う変化が隠せなくなってくるものだが、承はその点、まだ二十代半ばぐらいに見てもらえているようである。これを言うとあまりにさもしいと思われそうで黙っているのだが、コンビニで煙草や酒を買うときにはレジ係の手元を注視している承であり、いまのところはまだ「29」のボタンを押されているようだ。中寉がこの通りやたらに若く見えるので、どのみち自分がおっさんに見えてしまうのは仕方のないことではあるが、釣り合いというものがある……。

 頭を洗わせながら、そんなことを考えているときだった。

「あ」

 ぴたり、中寉が髪の中で手を止めたのは。

「……なんだ」

 中寉は答えない。泡が入らないように目を閉じている。聴こえたのは「あ」という、なんとも不吉な響きの声だけだ。

「何だよ、何か出来てるのか」

 日々、こうやって中寉に髪を洗われている。自分で洗うよりも、頭皮の環境は衛生的に保たれているはずだから、腫れもの出来ものが生ずるとも思いがたい。鏡で見ている限り承は毛髪の量に問題はなく、基本的に癖のない毛であるが、延びてくるともみあげの辺りが妙にモサモサとするのが悩みと言えば悩みである。しかし、散髪に行くタイミングが解りやすいと言うことも出来る。

 だから、まさか自分の髪に何らかの問題が発生するなどとは思ってもみなかった。

「ここ」

 中寉の左手の、中指だろうか? 指の腹が、右耳の後ろに当てられた瞬間、承はぞっとした。

「マスター、ここ、なにも、なにもありません」

 認めがたいことであるが、承には中寉の言葉の意味が瞭然と理解出来た。

 豊かな髪に覆われているはずの承の頭皮なのに、中寉の指が、全くもって何に遮られることもなく、ぴったりと触れているのが判るのだ。

 つまり、その場所だけぽっかりと、頭髪が抜け落ちているということだ。

 中寉がシャワーヘッドを放り出して、濡れた身体のまま浴室を出ていった。普段は走るということも滅多にしない、セックスのとき以外は原則的に落ち着き払った男なのに、時間もわきまえずにどたどたと走って行って、どたどたと戻ってきた。

「マスター、枕、枕カバーに、髪が、抜け毛が」

 冷たく感じられる指先で、恐る恐る承も触れてみた。こめかみからもみあげは問題ない。しかし耳に沿うように生え際を確かめていくと、……ちょうど耳の孔の真後ろの辺りで、抉れている。そのエリアだけ奥行きは人差し指の第二関節ほど、幅も指と同じ程度、ぽっかりと何もない余白。

「……これは……」

 震えそうな声を叱咤して、

「あれか、……あの、円形脱毛症ってやつか……」

 と言ってみて、血の気が引いた。中寉が青ざめた顔で手にした枕には、一夜で抜けたものとは思えない量の毛髪が付着している。あれほど熱を帯びていたのに、その細い太腿の間のものは印象ばかりか形状まで幼くなっていた。

「病院に行きましょう」

 震える声で中寉は言った。

「行ってどうするんだよ」

「治療するのです」

 うっかり動転してしまったが、深呼吸を一つ。

 冷静さを取り戻してみれば、何て言うことはない、……円形脱毛症、である。自分がストレスに弱いと思ったことはなかったが、それでも病禍の中で先行き不安はずっと感じていた。ランチ営業を始め、不慣れなことを多くして、マイナスの種を一つずつ丹念に潰すことに躍起になっている間は忘れていられたが、少しばかり過重労働だった可能性はないではない。

 加えて言えば、昨晩はライブを控え、多忙な日々に練習も差し込んでいたものだから、何らかの形で疲労が身体に出ることがあったとしてもおかしくはなかった。

「別にほっとけばそのうち生えて来るだろうよ」

 落ち着きを取り戻した承は、事を重大には捉えていなかった。それより何より気にしたのは、不自然にすっぽり、幅二センチほど、奥行き四センチほど生じてしまった余白が問題のない部分の髪に隠れるかどうか。……どうやらこれは平気なようだ。今の今まで、毎日一緒にいる中寉が気付かなかったのであるから。

 承よりも中寉の方が不安がっていた。青ざめて、微かに震えて、

「僕、ちょっと出てきます」

「どこに……、おい!」

 承が止めるのも聴かず飛び出していって、三十分後にしょんぼりと帰ってきた。二十四時間やっているバラエティショップに育毛剤を買いに行ったのだそうだ。薬剤師がいないとかで門前払いを食らったらしい。

「別にそんなもん買ってこなくてもいい。放っておけば自然と塞がる」

「本当にそうでしょうか。今後進行して、マスターの髪が一本残らず」

「縁起でもないこと言うなよ……。やめとけ」

 スマートフォンに伸ばした手を止める。「こういうのはネットで調べたっていいことなんかないんだから」

「ですが」

「お前が俺に言ったことだろう」

 大体が、不安を煽るような記述にぶち当たるように出来ているのだ。今回の病禍においてはもっとタチの悪い、非科学的な素人考えも横行した。

「昔、知り合いにいたよ。ここらへんが」

 と承は後頭部を指差した。「丸くすっぽり抜けちゃった奴が。でも、しばらくしたら治ってた。俺のも同じだよ。目立たないところでよかった」

「ですが」

 中寉がくしゃみをした。濡れた髪で出ていったから風邪をひいたのではあるまいか。結局のところ、二度目のシャワーを浴びさせることになってしまった。しっかり温まった後とは思えないような白い顔で出てきた中寉は、もう既にベッドに横たわった承の横に収まって、物憂げな溜め息を吐いた。

 中寉は承の後頭部に向かって、

「心配しているのではないのです」

 などと言った。

 心配しなくていい、と言ったのは承であるから、その言葉は実のところ間違ったものではないのだが、幾らなんでも可愛げがなさすぎるのではないかと思って振り返る。明かりを消した部屋でも光を集めて揺れる中寉の瞳が、待ち構えていた。

「僕はマスターのお身体を心配しているのではないのです」

 じゃあ、どういうことだ。

 訊き返す前に、光が消えた。中寉が双眸を閉じたのだ。

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