二〇二一年・副腎皮質ホルモン

 次の日から、承の通院が始まった。

 アパートの最寄り駅から各駅停車に乗り、都心に背を向けて十五分。そこそこ栄えた杉野辺駅の北口にある皮膚科の名前は、そのものずばり「杉野辺駅北口皮膚科」と言う。病院の名前も色々であるが、これは判りやすさを旨としたネーミングだ。まずまず新しい八階建てのビルの五階、ひとつ上の階は歯科、そのもう一つ上は耳鼻科で、一つ下の階は内科小児科、ビル内に数々のクリニックが集まっている。

 初日はホームページから午前の受付開始すぐに予約を入れたのに、三時から始まる午後の部の終わり間際の五時五十分しか空いていなかった。かなり繁盛していると見てよい。時節柄、大の大人である承に中寉を付き添わせるのも気が引けて、待合室には一人で臨んだ。名前を呼ばれて入った診察室では、自分とあまり歳の変わらない若い医師が患部を覗き込んで、

「ああ……、なるほど」

 と気の毒そうに言った上で、

「ひとまず、塗り薬を出しましょう。朝と夜に患部に塗ってください」

 処方箋を作った。承は、冷静さを装って頷き、

「あの」

 一番気にしていたことを医師に問う。

「これは、うつったりすることはあるのでしょうか」

「それはありませんね」

 医師は即答した。

「円形脱毛症の原因は色々考えられますが、同居されているご家族に伝染するということについては、ご心配なさらなくて大丈夫ですよ」

 それが判れば、もういい。万が一にも同じ苦しみが中寉に伝播してしまうのだとしたら……。

 では。原因は何なのか。ストレスや仕事の疲れであろうかと、承は言葉を向けてみたが、医師は「わかりません」と首を振る。

「もちろん、そういったものも原因の一つかも知れませんが、実のところ円形脱毛症の原因と言うのははっきり『これ』というものを挙げることが難しいんですよね。免疫の問題であるとか、自律神経と関係しているケースもありますし、アレルギーによって発症するケースもあります。今回お渡しするのは免疫が毛包、……皮膚において毛を作る部分ですね、そこを攻撃してしまうことによる脱毛を止めるためのステロイド剤です」

 ステロイド。聴いたことはあるけれど、どういう質のものであるか、承はよく知らなかった。

「免疫を抑えるお薬です。例えば蚊に刺されると赤く腫れて痒くなりますよね。実はあれは、免疫の働きなんです。免疫というものは人間の身体の防御反応……、問題が発生していることを身体に伝える重要な機能です。なくては困るものですが、連絡手段として痒みや痛みや炎症を引き起こして、不快感や苦痛に繋がってしまうこともあります。それがあんまり酷いと、それはそれで困りますよね? それを一時的に抑えてあげるのがステロイド剤です。円形脱毛症も患部で免疫が働きすぎてしまっているケースが見られますので、今回はそれを外から抑えていきましょう。ただ……」

 ただ?

「円形脱毛症にも色々な種類がありましてね。ご存じかも知れませんが、こういうところ」

 医師は自身の後頭部や頭頂部に指を当てた。

「に出来るものはそれほど心配要らないことが多いんですが、上之原さんの場合は耳の後ろの生え際から発生しています。この場合、少し厄介なケースであることも考えられます。ですので、根気強く治療していくことが大切です」

 お大事にどうぞ、と見送られて支払いを済ませて出ていくと、どこか喫茶店にでも入っていればいいのに、不安げな顔で立ち尽くしていた中寉が駆け寄ってきた。

「お前にうつる病気じゃないってさ」

 承の言葉に、一瞬、中寉が表情を強張らせた。しかし、俯いて、

「気付いていらしたのですか」

 と少し苦しげに言った。

「まあ……、何となく判った」

 処方箋薬局でも、建物の外で中寉は待っていた。ジェネリックありますけど、じゃあそれでお願いします、そんなやり取りを経て、オレンジ色の小さなボトルを二つ受け取って、あとはもう帰るだけ。

 だから、駅ナカの喫茶店に入った。

 中寉はアメリカンコーヒーにミルクだけを入れて、スプーンでかき回す。その水面に視線を落として言った。

「僕は、自分がうつったらどうしようと思いました。でもそれは」

「自分のためじゃないんだろ」

 唇を少し尖らせただけであどけなさが増す顔だ。じっと見ていると溜め息が出そうになるぐらい美しい顔だ。

「お前が先週俺のこれが判ってから、どんなこと考えてたか当ててやるよ。お前はまず、俺のこれが自分にうつるもんなんじゃないかって恐れた。お前は俺がどうなろうと関係ない、……どうなろうと、お前は変わらない。だけど、自分がどうにかなったら、俺が変わるかも知れないって思ったんだ」

 小さく、……本当に微かに顎を引くように、中寉は頷いた。

 僕は空っぽで何もないから。

 中寉が以前、よく口にしていた言葉である。誰かへの憎しみ、誰かへの愛情、それは感情として中寉の裡に詰まっているものに他ならないけれど、肝心の中寉了の自意識というのは、「可愛いでしょう」と甘えて言うことからも明白な通り、「可愛い」ことにしか価値のない骨組と外皮によって出来上がった器なのだ。畑村國重の墓の場所を、承は調べてもう知っていて、何度か本当に砂でもぶっかけに行ってやろうかと思ったけれど、いまのところしていない。承がそうしたい衝動にしばしば駆られてしまうほど、中寉の骨組にはまだ、あの男の呪いが染み付いて色が落ちない。

 中寉は確かに可愛い、美しい。いまも、ちょっと離れた席から視線が向いているのが判る。

 すぐれたもの、価値のあるもの、……幾千、幾万も種類のある「いいもの」のうち、たまたま「うつくしいもの」を持って中寉は生まれてきた。承自身、素直に言葉では表現しないにせよ、中寉の美しさはいくら賛美したって足りないと思っている。

 しかし、それだけのことだ。

 中寉は中寉である。空っぽではないと承は思っているし、空っぽであったとしても、別に構わないと思っている。承は幸いにして、中寉のいいところを容姿の美しさ以外にもたくさん知っていた。そして、そのどれが失われたとしても、最終的には中寉の心臓が動いてさえいればいいと思うのである。

 だから仮に、中寉が髪を失ったとして。その美しい声を失ったとして。

 そんなことは、本当は起きて欲しくはないけれど、その目から光が奪われ、自分の声が届かなくなって、触れてもぴくりとも動いてくれなくなったとしても。

 それでも承は、中寉を愛しているはずだ。

 けれど、中寉は恐れた。空っぽの自分、何もない自分。美しさを失ったら、承は気変わりを起こしてしまうかもしれない……。

「中寉、……中寉よ。俺は、何かもう、怖くなくなったかもしれない」

 承はアイスコーヒーをブラックのまま吸い上げた。

「自分の髪がどうなろうと、平気かもしれない。いや、別にこれは、ヤケクソで言ってるんじゃなくてさ」

 関係ない、心配していない、と言ったのは、端的にそのままの事実を口にしただけだ。

 承の髪が残ろうが失われようが、中寉は変わらない。命に別状のない病気なのであれば、心配もしない。伝染しないものであるかどうかだけは、どうしても気になったに違いない、きっとそれについては、禁を破ってインターネットで調べたのだろう。妥当に「うつりません」という答えを拾うことが出来たのではないか。

 それでも、中寉は本気で心配した。うつらない、と解ったあとも。

 承の動揺が一時の小康状態を経て、絶望へと変わっていくところを、同じかそれ以上の痛みを受け止めながら見ていた。遅かれ早かれ禿げるかもしれない男、どうしたって中寉より美しくない男の心が揺れるたび、自身の胸に針が刺さるかのように感じていた。

 一瞬でも怒りそうになったことを、承は本当に恥ずかしく思う。

「……根気強く治療しましょうってさ、お医者さんが。今日もらった薬も、……ステロイドっていうのは、免疫を抑えるためのものだろ。塗って、そこでちょっと暴走してる免疫を抑えて、これ以上抜けなくなるようにってものなんだろ。だから、すぐ生えて元通りになるかって言ったら多分違うんだろうし、まあ……」

 中寉の長い睫毛が濡れていた。すみません、と小さな声で謝って、半袖のシャツの袖で拭う。ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても成人男性には見えない中寉であるから、端から見たら承は極悪人かもしれない。

 顔を上げた中寉は、目と目の下を紅く染めていた。

「マスター、僕と結婚してください」

 濡れた視線をまっすぐに向ける。

 ぎょ、とした顔で二つ隣の席のサラリーマンがスマートフォンから顔を上げたのが承にも判った。

「辛いときでも、苦しいときでも、貧しいときでも、世界が、この世界がボロボロになっても、僕は、僕はあなたと一緒にいたいです」

 ……俺、再来週ぐらいにまたそこの病院に来るんだけど? あのサラリーマンたち、あるいは他の客たちが、駅を出て病院に向かう承を見て「あっ」という顔をするかもしれない。

 仮に、ここで「うん」とでも頷いてみよ。中寉はまた泣き出すに違いない。声を抑える努力も放棄して、えんえん泣くに決まっている。そうなれば、益々どうしたらいいか判らなくなってしまう。けれど曖昧に言葉を濁すことも、なんだか不義理なようで出来かねる。

 どうしたものか……。

 中寉は言葉を待っている。承が何らかの答えを寄越すまで、いつまでだって待つつもりだろう。周囲の席の人々も、男であろうかと思われる、けれどとびきりの可愛らしさを備えた中寉のプロポーズに、承がどんな言葉を返すのか、興味津々で待っている。

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