二〇一九年・川面の風

 上之原承が雇われ店主を務める『緑の兎』はバーであり、多少の食事も出す。しかるに承はこの店を任されるまで人に食べさせるだけの料理を作った経験はなく、簡単な乾きものや、切るだけ焼くだけレンチンするだけの「料理」でお茶を濁してきた。

 中寉了は当人の自称した通り、料理が上手かった。

 仕事の合間に手狭なキッチンに入って冷蔵庫を数秒覗くと、たいして手間を掛けている様子もないのにあっという間にちょっとした一皿を完成させてしまう。

 中寉の料理はすぐに評判になった。

「ちょっと承、あんたんところね、もっと早くから店開けなさいな。そうしたらあの子の料理でもっとお客呼べるようになるわよ」

 斜向かいのビルの二階、イケメンに囲まれてなかなか趣味のいいワインが飲める、という店をやっているミツルにはこうすすめられた。悪くはないアイディアだと思ったが、どうせ一年やそこらで辞めるアルバイトのために店の形を変えるのも馬鹿らしい。中寉が休みの日には振る舞えないのも問題だ。

「そういう日にはあたしの店に来るように言って頂戴。うちにだってヤンがいるんだから」

 ヤンというのは、ミツルの店で働いている料理上手だ。一度「ヤンが作ったのよ」と里芋の煮っ転がしをお裾分けに来てくれたことがある。ヤンはオランダ人だそうだが、見事なまでのおふくろの味で、承はうっかり北陸の実家を思い出してしまった。

 しかし、中寉の作るものも負けてはいない。

 この日も、店じまいをして金の計算を始めた承の視界をあっちへこっちへ、片付けに掃除にと働いた末に、ちょっと姿が見えなくなったなと思ったら、テーブルの上に出来立てのプレートが置かれた。

「なんだこれ」

 普段は出来合いのオードブルを買ってきて温め直して盛り合わせにするために用いる白い皿の、白いところがあまり見えない。

 オムライス、である。さらりとした質感の薄焼き卵の黄色に、鮮やかなケチャップが掛けられている。細く整え切られたキャベツの千切りと、オードブルの残りであるナポリタンまで添えられている。街の洋食屋でも千円ぐらいは出さなければならない一皿だ。

「お腹が空いておられるご様子でしたので」

 独楽鼠のように働く、という言葉がある。仕事中の中寉にはその言葉がしっくり来る。愛想は限定的であるし、言葉遣いは硬い(承は処方箋薬局の薬剤師みたいだと思っていた)が、とにかく仕事をする。仕事と言ったって、グラスを下げたりテーブルを拭いたり、簡単なことであるが、手抜かりというものがまるでないのだ。

 ツルだから、コマネズミではなくてコマドリか。いや鳥ではないから「寉」なのだった。

 中寉はじっと承の顔を見ていた。こうなると、キーボードを叩く手を止めざるを得なくなる。実際、この時間の空腹は耐え難いものがある。

 スプーンを黄色い薄焼き卵の肌に入れた。ふわっとバターの香りがした。入っているのはケチャップライスかと思ったが、それにしては色が茶色い。訝りながら口に運ぶと、ぴりっとスパイスの辛味がある、メキシカンピラフである。これがバターを贅沢に使ったらしい玉子に、ことのほか合う。

 普段、家での食事は冷凍食品かインスタントラーメンであり、それにコンビニのサラダと野菜ジュースを付けて自身へのエクスキューズにしている。これが人間の食事か、と唸りそうになった。

 こいつすごいな、と常々思っている。店の、大したものは入っていなかった冷蔵庫に「私物を入れてもよろしいですか」と食材を持ち込み、こうして仕事上がりに食事を作り、承に食べさせるのである。

「マスターは」

 中寉はすっかり承をそう呼ぶようになっていた。もう一人のアルバイトも、面白がって真似るようになった。

「今日もまっすぐお帰りになりますか」

 いいや、と承は首を振った。

 明日から、珍しく三連休である。今日は日曜日、明日は祝日で、店自体は二連休。飲食店ながら「毎日ダラダラ開けてるよりは」というオーナーの意向によって週に一度は定休日を設けているし、カレンダーが連休のときにはもう一日休みを追加することになっている。とっくの昔に上がっているもう一人のバイトは温泉に行くんだとうきうきしていた。

「ここで一眠りしたらボートに行く」

「井の頭公園にでも行かれるのですか」

 何が悲しくて男独りで舟を漕がなくてはいけないのか。

 しかしこれは仕方のない誤解である。中寉の人生においてギャンブルに触れる機会などなかったに違いないから。

「ボートレースだよ。……ずっと寝ててもいいけど、まあたまにはって思って」

「左様でしたか。そういう競技があるということは知っていましたが、なにぶん僕の周囲で実践している人がいなかったもので」

 中寉は何かの感情を催したのかも知れないが、表情に出すということはしなかった。

「だから、お前はもう上がっていいよ。……オムライスみたいなの、ごちそうさま。皿は洗っとくから」

「お口に合いましたか」

「上等だったよ」

 承も中寉も、態度は違えど無愛想者である。そしてまた承は、どうやら中寉も、平気で何時間でも黙っていられる性質であるという点は共通しているようだ。

 この業界を、「人と話すのが好きで」と志望する者がいるが、なんと豪快で不幸な勘違いだろうかと承は思っている。この仕事に必要なことは、人と話をする技能ではなく、寧ろ人と話をしない器用さである。無礼にならない範囲の慇懃さを携えて、需要の範囲内でのみ執り行われるそれを、コミュニケーションとは呼ばないだろう。

 お先に失礼します、と頭を下げて中寉は出て行った。承は皿を洗って歯を磨いてワイシャツを脱ぎ、アラームをセットしてからソファに丸くなる。





 正午前に、川沿いのボートレース場に着いた。梅雨の只中の割りに、からりと晴れて気温は高く、水の気を帯びて吹く風は爽やかだ。

 第四レースの締め切り時間が迫っていた。舟券はスマートフォンでも買えるけれど、どうせ現地に来たのならば、やっぱり紙のを買ったほうが気分も上がる。しかし予想はこれからだ、あまり時間はないが……。そう思いながら入場して、大股に歩き始めたところだった。

 祝日ということもあって普段より混んだギャンブル場があまり似合わない若さと小綺麗さが、すいと視界に入った。

「おはようございます、マスター」

 中寉だった。

 なぜこいつがここにいるのか……、まずはそれが判らなくて、混乱する。

 ボートレース場は東京圏に四つあり、今日はそのうち三箇所で開催されている。

 なんでこいつは、俺がここに現れることを知っていたのか。

 痩せた身体に絡み付いた白のカットソーに、メンズでそのサイズはないだろうから恐らくレディースのジーンズを合わせて、腹の前には黒のサコッシュ。仕事には大学から直接来る中寉の、いつもより身軽なコーディネートだ。

「ご一緒させて頂いてもよろしいですか。お邪魔でしたら帰りますので」

 断る理由を探しているうちに、「第四レース締め切り五分前です」なんてアナウンスが聴こえて来た。モニターに表示されている展示航走のタイムをざっくりと拾って舟券を買うためのマークシートを塗りながら、

「……なんで来た」

 顔を上げずに承は訊く。

「来てみたかったのです」

 淡白な声で中寉は応えた。マークシートを完成させた承が券売機の列に並ぶのに付いてくる。およそ十歳の差だが、中寉はもう少し若く幼く見える。かといって二人が親子に見えることはないだろう。

「ボートレース場に来てみたかったのか」

「どこでも構いませんが、誰かと何処かに来てみたかったのです」

 彼がそこまで言ったところで、順番が来た。

「もしお邪魔でしたら僕は帰りますが」

 舟券を買ったら券売機の列から外れて、堤防を階段で登る。登ったところからは、河川を使用した競走水面が見下ろせる。水面に向かっては階段状の簡易的なスタンドになっており、腰を下ろしたところで舟券の締切ブザーが鳴り響いた。

「お前は……、ここ来て、なに、舟券買ったの?」

 いいえ、と中寉は首を振った。

「買い方が判りませんでしたので。それに、何も知らないまま買っても当たらないものでしょう」

「……まあ、そうだな」

 白黒赤青黄緑、六艇のボートがスタンドの左手前側のピットから離岸し、一斉に姿を表した。

「朝からここに来てレースを三つ見ました。どう考えても内側の艇のほうが有利に思えます」

 水面をじっと見詰めて中寉は言った。

「ですが最初のレースは青い四番の船が一着でした。二つ目のレースは白の一番が勝ちましたが、さっきは黒の二番が勝ちました。有利であることには違いなくとも、思惑通りにいかないから楽しいのでしょう」

 悟ったような顔に、ああ、と曖昧に頷く。

 邪魔であるか、と訊かれた。別段邪魔であるとも思わないのだが、居心地は普段より少し悪いな、とは思う。

 来る時は、いつも独りだ。だいたい損をして帰ることになる。それで構わない。これは休日の気分転換なのだから。

 ボートレースというのは一周六百メートル、一周あたり二つのターンをこなして三周し、着順を競うスポーツであり、客である承を含めた者たち(学生風の者を見掛けることも珍しくなくなったが、多くはおっさんとじいさんである)は着順を予想して舟券を購入する。

 同じところをぐるぐるぐると三周回って。もちろん、一つのレースには数え切れないほどの見どころがあるけれど、基本的にはワンパターンの繰り返し。

「ラストターンマーク回って最後の直線、昨日から連勝で一番山代ゴールイン、二着四番藤木ゴールイン、三着六番持筑ゴールイン、後ろ、五番二番と相次いでゴールイン、最後三番黒坂ゴールイン。以上第四レースでした……」

 実況がアナウンスを締め括った。

 控えめに中寉が承の手元を覗いたのが判る。少し時間は掛かったけれど、中寉は承の買った舟券が外れたことを見て取っただろう。しかしそのことについて、彼から何らかの言葉が発されることはなかった。

「別に、お前がいたけりゃいればいいと思うけどさ」

 手のひらの中の舟券を握り潰して、次のレースに出走する六艇が試走に姿を現した水面を見ながら、承は言った。承は自分の頬のあたりを彷徨っていた中寉の顔が一度水面に向いて、

「何を参考にしたらいいのでしょうか」

 と呟き、「教えていただけますか」と付け加えるときに再び自分の顔に戻ったことを認識する。他人行儀でありながらも敬意の籠った言葉は、決して不愉快なものではなかった。この距離感は、兄弟のそれだろうか? 弟のいたことはないので、確かな想像ではないが。

 中寉があの「面接」にやって来た日、名前が「了」であることを知ったとき、僅かにこみ上げた思いがあった。

 大学進学を機に上京して来て以来、実家のある福井にはほとんど帰っていない。承には兄と姉が計三人いて、上の兄は県の職員、姉は市役所に就職して三年後に見合いで地元の企業の御曹司と結婚しいま二人目がお腹にいるのだったか、もう産まれたのだったか、そして下の兄は父と同じ教師になった。両親にとっては自慢のこどもたちであり、承はそうではない。

 のちに本人に、お前には、きょうだいがいるのかと訊いてみたら、「もう長いこと会っていませんが、上に二人、兄がおります」と答えた。そうだろうな、という予感が当たった。

 ずっと昔の、まだしっかりとした避妊が執り行われていなかったころ、名前とは残酷なものだった。この女子でもう終わりだからと「トメ」だとか、末っ子のつもりで産んでいるから「スエ」だとか。たくさん産まれても育てられるだけの経済状況にない家が多かったという事情を物語る名前を多く見ることが出来る。

 了という漢字にも、終わりという意味がある。もちろん、考えなしに字の形や響きだけで選ばれることもあるだろうが。

 上之原承は、当初「上之原了」と名付けられるはずだった、ということを口の軽い伯母から聴かされたことがある。あんたで最後のつもりだったのよ、だけどそれじゃあんまりだからと色々付け加えることになって、だからあんたは「了」じゃなくて「承」になったんだよ、と。自分の名前がなんだか汚らしく思えるようになったのはそのときからだ。

 中寉了が店で働き始めて一週間ほど経った日、開店準備をしているところにオーナーがやってきた。礼儀正しいお辞儀をした中寉の前でぽんぽんと気安く承の背中を叩いて、

「この男のことは歳の離れたお兄ちゃんぐらいに思うといいよ」

 と、中寉にだけではなく承にも隔意なく接するよう促した。

 オーナーは承の名前の事情について知っている。たまには付き合って、と請われて龍と呼ばれるあの推定中国人と三人で呑んだときに、珍しい名前だと言われて話したのだ。そのとき「了」という名前が最後の子に対して付けられるものだという情報を得た彼は、当然中寉の名前を見て察しただろう。兄弟のように仲良くいればいい、と彼が言うとき、二人の背景にあるものを見ていないはずがない。

 展示航走の見方を、マークシートの書き方を教え、普段独りで来るときには買わない新聞を買ってやる。承は誰かとボートレースに来たことがなかった。僅かばかりの友人と休みを合わせる気もなかったし、恋人は、少なくとも恋人としている限りは優先してやらなければならなかったから、デートの行き先にボートレース場が選ばれる可能性は皆無だった。

 第五レース、隣の券売機にマークシートを挿入しようとして上手く行かず、首を傾げた中寉に「金が先」と教えてやってから自分の舟券を買う。中寉が承の言葉と新聞の記述を頼りにマークシートを塗っていくのを見ながら、こいつのが当たったら俺のは当たらないなと思っていたが、何も言わなかった。当たって、楽しいと思えば、こいつも将来的には気分転換にボートレース場に来るようになるかもしれない。

 何事にも、糸口というものはある。

 承の場合は、生まれた町から自転車で三十分という場所にボートレース場があり、同級生の叔父が現役のボートレーサーであったということが大きかった。その友人の家族に連れていってもらったボートレース場で六艇のボートが水上を駆ける姿を見て、シンプルに格好いいと思ったのだ。いっときは将来の夢に「競艇せん手」と書いたこともあるが、親はいい顔をしなかった。それでも夢を胸の裡に温めて、ボートレーサーになるためには身体が強くなければいけないと知ったから部活に励んだり、頭がよくないと試験に受からないと知って以降は勉強にも身を入れて頑張ったのだけれど、高校一年で身長が規定を越えてしまったので諦めざるを得なかった。まもなく受験資格を有する年齢も超えてしまう。まだボートレーサーを志したら叶えるための努力さえすればなれるかもしれない年齢と身長の中寉を、別に羨ましいとは思わなかったけれど。

 中寉の買った舟券は当たり、承は外れた。

「当たりました」

 嬉しいのか嬉しくないのか、ぱっと見では判断できない顔で中寉は言った。

 次のレースの展示航走を見てから中寉の当たり舟券を換金してスタンドに戻る前に、堤防の上にあるスタンド灰皿で煙草に火を点けた。中寉は、律儀に側に立っている。彼は一度家に帰って、最低限シャワーを浴びて着替えたようだ。承の服は昨夕の出勤時と同じであるが、このボートレース場近くの銭湯に寄って汗を流している。

「……どうして俺がここに来ると思ったの?」

 ずっと気になっていたことを、承はやっと訊いてみた。

「マスターがボートレース場に行かれるということを知って調べてみたのです。今日はここ以外にも東京圏では二ヶ所のボートレース場において競技が行われていることがわかりました」

「そっちかもしれないとは思わなかった?」

「思いませんでした」

 きっぱりと中寉は言う。

「マスターはお店で仮眠を取って行かれるとおっしゃっていました。残りの二ヶ所は一度マスターのご自宅に寄ってから行かれるとしてもそれほど所要時間は変わらないようですが、ここは場所が東に外れていて、マスターがご自宅に帰られてから出ていらっしゃるのは少々お手間のようでした」

 なるほど、と思う。

「もうひとつ理由があるとすれば、僕の住んでいるところからはここが一番近いのです」

 家で仮眠を取って、身支度を整えてくるとなれば、中寉にとっても都合がいいのがここだった。中寉は横に長い東京都が足を西に向けて仰向けに横たわっているとしたら、右耳の辺りに住んでいる。

 承は前夜からここに来ようと決めていた。川に設けられた競走水面はすぐ前方を高速道路が塞いでいるものの、上流も下流もすっきり開けていて清々しい。時おり風が強く吹いて、中寉の髪をぼさぼさにした。

「当たってよかったです」

 小さめの笑顔で彼は言った。それほど楽しそうにも見えないのだが、そうか、よかったな、うっすらと承は思った。

「……でもお前、身体平気なのか」

 初対面のときに彼が言ったことを、承はしっかりと記憶している。

 僕は長くは生きられないようなので。

 見ている限りは健康そのものであるが、確かに華奢で風邪をひきやすそうだな、とは思う。そこまで踏み込んでいいものかどうか判じかねて、そこのところはどうなのだと訊いたことはまだ一度もない。

「構いません。明日もお休みですし、何なら大学は休んでしまってもいいかもしれません。前期はまだ一度も休んでいなかったので、たまにはこういう時間もなければいけないと思いました」

 それはそうだ。自身、全く真面目ではない大学生であったことがあるので、夜の仕事をきっちりこなしながら大学にも通う中寉を、少々窮屈に思っていた承である。もっとも、身体の小さな男なので、それぐらいのことに窮屈さを感じてはいなかったのかもしれないけれど。

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