二〇一九年・動機付け

 畑村國重元首相の訃報がメディアを駆け巡ったのは、中寉を店から追い出した翌日のことだった。

 この国では人が死ぬと、たとえその人物が生前どんな悪人であったとしても、ひとまずはそのことには触れず沈痛な面持ちを形作り悼むことをこそ尊ぶ。生きていた悪人が死ぬなり聖人になれることを知っているのだから、誰も善く生きようなんて思うわけがない。

 どうやら小児性愛者であったらしい男を「素晴らしい人だった」と讃える気色悪いニュースを消して家を出た蒸し暑い日。夕方の開店前に、顔を見せたオーナーは、釈然としない思いに表情を曇らせ声を濁らせる承に、「何かあったの」と問うた。

「まさか、あの死んだ元総理のことが好きだった?」

 この店のオーナーは金髪の外国人であるが、彼の言葉に癖はまるでない。承より背が低く、恐らく年齢は同じか彼のほうが歳下であろうと思う。

「もしそうだとしたら、俺は君を差別主義者だと定義しなきゃいけなくなるかもしれないけど」

「……なんでです?」

「その元総理が差別主義者だったみたいだから。『ホモは病気』とかほざいたってさ。そんなことも忘れてお祭りみたいにみんなぴいぴい囀ってるね。知ってる? サッチャーが死んだとき、『地獄が民営化される』って書き込みがネット上であった。俺は腹抱えて大笑いしたけど、この国にはそぐわない笑いみたいだ」

 これこれこういうことがありました、もちろん畑村に関する情報を除いて承が語った言葉を、栄雁饅頭をかじりながら聴いたオーナーは、

「いいんじゃない? いまいる子と歳も近いし、友達になれるよきっと」

 と言った。「龍、お前も食べなよ。美味しいよ」と彼は隣に座る男にすすめた。

 オーナーの隣にはいつでも髪の長く痩せた、まあ二十代半ばと思われるスーツ姿の男がいる。推定中国人か台湾人、中寉と比較してどちらが、と言うことが難しいぐらいに顔の整った男である。承は彼が話すところをまだ見たことはなかった。単純に日本語を解さないのだろうか。しかしオーナーの言うことは理解できているらしくて、こくんと頷いて、「龍」は上品に栄雁饅頭を両手で持ってもぐもぐと食した。

 承はこのオーナーに引き合わされたときのことを忘れられない。どんな政治家、それこそ畑村のような大物を前にシェーカーを振るときよりも緊張したし、怖いと思ったことをよく覚えている。

 前の職場である「隠れ家」が店じまいをすることとなった際、退職金はごくささやかなものが出たばかりであるが、働いていたスタッフは全員残らず再就職先を世話された。承は正直、場末でもバーのカウンターでシェーカーを振ることさえ出来ればいい、……自分の店を持つなんてまだずっと先だと思っていたから、隠れ家の女主の導くまま宿木橋界隈から通りを挟んだ向かいの、雑居ビルの最上階にあるペントハウスに赴くことだってそれほど気が進んだわけでもなかった。

「えーと、上之原……、なんて読むの?」

 別段鋭さを感じさせるわけでもない金髪の優男なのに、得体の知れない迫力を感じた。お前は俺の言うことを聴くんだよ、逆らうなんて選択肢は最初から存在しないんだよ、という傲慢さは、大して広くもないし骨組みは貧弱なペントハウスでありながら、内部に一歩踏み入って目に飛び込んでくる調度品の全てが推定される価格の桁数で承を圧迫してくる。静かに組み臥されたみたいな気持ちだった。

「へー、これで『コトツグ』って読むのか……、へーえ……。じゃー、承って呼んでいい? 承、……は、バーテンダーなんだってね。俺の持ってる店の一つでシェーカー振ってくれないかな。いま働いてる人がさ、実家、八百屋さんらしいんだけど、お父さんが倒れちゃって辞めたいって言ってるんだ。きちんと仕事が出来るバーテンダーをいま大絶賛募集中でさ。あそこの女将のところで働いてたんなら、承はきちんと仕事が出来るんだろうと俺は思ったんだけど、どう?」

 あとから、「あの金髪男はほんのここ何年かの間にあっちこっちのビルを買い漁った」とか「ちょっと前までどこの店も困らされていたカスリがあの男が来てからなくなった」とか、そういう話が承の耳に届くようになったが、さもありなんという気がした。カスリとはみかじめ料のことであるが、宿木橋においても特に飲食店では暴力団対策は悩みの種であったに違いなく、それがこの男の登場によって鎮まったのであれば、只者ではないことは明白。

 あるいは、彼の方がもっとずっと危険な存在であると見るほうが妥当であろうか。

 具体的にどう危険な存在であるかということについて、確かめるような命知らずな真似はもちろんしていない。話している限りは気さくな、実のところどうやら承より少し歳下の男である。

 かくして、LGBTQ+のそれぞれの頭文字は三つしか知らなかったのに都内屈指のゲイ・タウンでゲイバーを任されることとなった承は、雑念を捨ててた真面目に働いてきたばかりである。

 正直なところを吐露すれば、ゲイは得意ではない。苦手意識を抱くに足るだけの理由が承にはあった。

 しかし店と客、という立場であれば、相手がどんな性のベクトルを持っているかということは重要ではなく、比較的スムーズに馴染めた。周囲の店には承同様にノンケの店主も少なからずいたし、時々は物見遊山の感覚で女性客もやって来る。決して悪い職場環境ではなくて、だからこの男は疲れていることがあっても思い悩む姿を見せることはそれほど多くもないのだった。

 オーナーは「もう一個いい?」と承に饅頭をねだる。もちろん承は、どうぞと頷くだけである。

「可愛い子じゃん。もう一人と合わせて二枚看板になる」

 オーナーは履歴書を見ながら半分かじって、残り半分を龍に差し向ける。龍はぐっと上体を引いて数秒躊躇ったが、結局オーナーの手から饅頭を食べた。

「それは、仰る通りかと思いますが」

「もう一人もこの子が入ったらもっと気持ち入れて働くようになるんじゃないのかな」

「……それも、仰る通りかと思いますが」

 承は、あの「面接」とも言えない時間に中寉が話したことを思い出していた。けんもほろろってこういう感じなんだろうなと自覚しつつ拒絶した承に、中寉はこう言ったのだ。

 僕は、真っ当な人の生を歩いてみたいのです。

 どうやら僕はあまり長いこと生きられない身体のようですので。

 追い出してから、どういう意味の言葉だったのかと考え続けているのだが、答えは出ない。承の気を惹いて雇わせようという魂胆の、出任せを聴かされたのかもしれない。しかし、畑村についての言葉はどうも嘘ではなさそうだったし、今日になって危篤であったという情報も事実だったと判明した。ということは、中寉の言葉はどれほど常識外れなものであれ、信頼が置けるのではあるまいか……。

 迷い悩んでいるところにオーナーが顔を出してくれたのは、有り難いことかもしれなかった。

「……この中寉という男は、あまり身体が丈夫ではないようなことを言っていました」

 履歴書の職歴欄は空欄だ。さすがに、学生どころか児童であった時代から畑村宅において「書生紛い」のことをしていたとは書かれていない。

「初めてのアルバイトが、夜の仕事で大丈夫なのか、付いて来られるのかという点が、正直気になってはいます。容姿に関しては……、ええ、オーナーの仰った通り、人目を惹くものがあると思いますが」

「身体のことは承が気を遣ってあげればいいのさ。それに承、自分のしてる仕事には誇りを持つべきだよ。ゲイバーだって立派な飲食店なんだ。『緑の兎』はグリーンだけどクリーンで、宿木橋に来るのが初めてのゲイ・ボーイでも安心して寛げる店なんだろ?」

 そういう言葉を、「一応、形式上の」と前置きされた上で行われたあの日のペントハウスでの面接で承は口にしてオーナーに聴かせたのである。

 承は、『緑の兎』をどんなお店にしたいですか。ちょっとおどけて敬語を使ったオーナーに対して、少しの間考えた末に。

 ……私はゲイではありませんが、そういった人たちが自分と違う人間であるとも思いません。ということは、色々な人がおられると考えます。宿木橋に興味があっても、勇気が湧かなくて来ることが出来なかったり、来ても気持ちが細って帰ってしまわれる方もおられるのではないでしょうか。そういった方でものんびりと過ごせるお店に出来たらいいなと考えています。私自身が宿木橋においては「初心者」ですので、色々な方が安心して足を運べる、クリーンな雰囲気を醸し出すことが出来たなら……。

 といった具合の言葉を捻り出した承に、「うん、じゃあ、来週からお願い出来る?」とさほど考えた様子もなくオーナーは笑顔で言ったのである。

「今いる子は前の店長のときに雇われた。つまり、承が育てたわけじゃない。でも俺はさ、承は人を育てるってことも出来ると思うんだよね。その子が身体弱いなら、大事にしてあげてさ。年齢考えたら就職活動もあるだろうから、働くにしたってそんなに長い期間じゃないだろうけど、承の店で働いてた時間が彼の人生にとってプラスになったら、承としても嬉しいんじゃない?」

 本性がどんなものであれ、こうした思いやりと懐の広さをオーナーは持っていた。いや、承だってオーナーの「本性」を全部見極められているわけではないのだが、人間として備えているものの質量とも自分とはまるで違うのだろうということぐらいは把握できているつもりだ。

「ねえ承。龍がもう一個欲しそうにしてるから、いい?」

 残り二つになっていた箱の中身を二つとも二人に差し出すと、こどものようににっこり笑ったオーナーの隣で「龍」が瞳をぱっと煌めかせた。

 中寉了を雇おう、と承は決めた。オーナーがなぜだか採用に積極的である以上、雇われ店長の立場で異を唱えられるわけもない。いっそ「オーナーに言われたから」という理由が付与されたほうが有り難い。幼いこどもの時分から人生を蹂躙された末に早死にするという事実を示唆されて、平然としていられるほど心の太い承ではない。

 しかるに、善人であるとも思っていない。だからこそ言い訳を有り難く拝領して、上手に用いるだけのこと。

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