やがて死ぬ君のため、今のうちに挽歌を編んでおく。
415.315.156
二〇一九年・ナカツルの恩返し
二〇一九年五月末日。
上之原承は営業前のバーのソファに深く腰掛けて、腕組みをして唸っていた。向かいのスツールに座った男を見て、さっきから昔話が頭に浮かんで離れなくなっているのである。
「先日助けていただいたナカツルと申します」
黒いスラックスの膝に両の拳を当てて、彼は改めてぺこりと頭を下げた。癖と脂っけのない髪は、彼が頭を動かすたびにさらさらと風か雨の音を響かせるかに思われるのに、元の姿勢に戻ると営業時間中よりも明るくした天井の灯りを、ぴたりと輪にして冠にする。
「……別に、助けたつもりもないけども」
ナカツルは、ようやっと成人したばかりか、それともまだ高校生だろうか。曇りのない肌に、長い睫毛を宿した双眸の形と控えめな口が大人には見えないもので、承は測りかねていた。
正体不明の少年と相対して言葉を探している承のポケットの中、スマートフォンが震えた。アルバイトからのメッセージで、今日遅れますごめんなさい。スタンプ付きで送ってくるんじゃない、と苦虫を噛み潰すところを向かいの男に見られるのはなんだか癪で、ペットボトルの蓋を開けて炭酸水を含んだ。
ナカツルは黙っている。開店前のバーの天井に、承の喉が鳴る音がやけに大きく響いた。
上之原承が雇われ店主をしている宿木橋のバー『緑の兎』は六時に開き、翌朝四時に看板を仕舞う。しかるに承が店に身を置いている時間はそれよりも前後合わせて二時間以上長く、現在時刻は午後四時半である。ちょっと前には、業者が生ビールの樽を納めに来た。宿木橋のバー、と言えば特別察しがよいものでなくてもゲイバーであることは判るはずだ。
承は、宿木橋界隈に日々肩まで浸かることで生きている男である。
しかるに、この店に足を運んで、飲食を口実に滞在し、人間関係の糸を絡めたり結び合わせたり時にこんがらがって困惑したりする客たちとは性質を異にしている。承はたまたま知り合いの知り合い程度のか細い糸の先から求められて、去年からこの店を切り盛りするようになったというだけ。酒や食材を届ける業者と同じような感覚でここを仕事場としている程度の男である。
「……これはなに」
承はテーブルに並んだ物品について問うた。熨斗の貼られた和紙の飾り箱が一つ、それから白い長封筒も一つ。
「栄雁饅頭です」
「そう書いてあるからな、知ってるよ」
「ひとさまにお礼を申し上げるために参上するのに、手ぶらというわけにはまいりませんから」
「酒売る店に持って来るのに相応しいもんじゃないと思うけどな」
「甘いものはお嫌いでしたか」
承は答えなかった。酒呑みの割りにはだいぶ好きな方である。そうではなくて。
「この封筒はなんだ」
封筒には、謝礼、と表書きされている。
「助けていただいたお礼です」
「だから、俺はお前のこと助けちゃいないだろう」
「僕は助けていただいたと解釈しています」
中に入っているのは、金であろう。来年で三十、常識というものに詳しい自覚もある。栄雁饅頭は小ぶりながら上品な甘味のこし餡のたっぷり詰まった品であり、なるほど心の籠った謝礼に携えていくに相応しい。相手によっては現金という形を選ぶことも間違ってはいない。しかしその両方を揃えて差し出すというのはやりすぎであるし、重たい。
「ナカツル、くん? の、親御さんがこれ持って行けって言ったのか?」
いいえ、とナカツルは折り目正しく否定した。
「僕自身の判断です」
だとしたら、なおのこと問題ではないのか。
呆れながら、承はナカツルが言う「助けた」日のことを思い出していた。
四日前。日曜の仕事を終えたあと、ふらりとやってきたオーナーと話をして、勝手口から出て行った彼を見送った。しかるのち自らも、ガスの元栓やら水道やらのチェックをして、欠伸を噛み殺しながら店を出たところであった。
月曜日は店休日である。休む、と言ってもどこかへ遊びに出掛けることはあまりなく、ひねもすベッドの上、気が向いたらスマートフォンを弄ってボートレースの舟券を買い、負けが込んできたらサブスクで映画を見て、それで終い。何年か前まではもうちょっとアクティヴで、好きなものを食べに行ったり、知り合いのライブを観に行ったり、解き放つあてもやい音符をあっちへやったりこっちへやったり。
しかるに、いまや自分のギターケースにも埃が積もっている。
だから休み前の高揚とは無縁。あー眠い、メシ食って風呂入って飽きるまで寝るぞ、という程度のことだけを考えて勝手口から出て、入口の施錠をもう一度確かめようと回り込んだところ、ドアに両手をついて屈み込んでいる男がいた。
既に梅雨に入っていて、雲低く湿っぽく、少しひんやりした朝だった。
早暁の歓楽街、ということはあちこちに酔っぱらいの落としものや、酔っぱらいそのものが落ちていることもさほど珍しくない。社会に出てからというもの、ずっとどこかの飲み屋街で働いてきた承には見慣れたものではあるが、それを生産する瞬間を見ることに慣れられるものではない。だから、反射的に鋭い声が出てしまった。
「ウチの前で吐くんじゃない、別なとこで吐け!」
承の独善的な声に、ずっとガアガアと騒がしく喚いていた烏が一瞬黙り、道の隅を走っていた大きなネズミも立ち止まった。
黒いリュックサックを背負った男の背中も、承の声にびくんと震える。それが食道からの胃液の迸りを堪えかねたものであるかに思われて、承は身構えたが。
男は店の前に一ミリリットルも汚れをぶちまけることなく、ドアに頼るように頭を垂れたまま立ち上がって、ゆっくりとドアから手を離す。最後に頭を上げて、顔をゆっくりと承に向けた。
鶴に似ている、とそのとき思ったのだ。
別に首が長いわけでもないのに、なぜそう思ったのだろう。この日の眠りに落ちる前に考えて、……ああ、髪が真っ黒なのと、肌が真っ白なのと、あと、なんでか知らんが涙袋の目尻側がほんのり赤らんでいるせいだ、と答えに辿り着いた。カラーリングの共通性である。
痩せていて、背が低い。しかし貧相という印象は不思議と受けなかった。この時間の宿木橋にいる、ということはどこかで働いているボーイであると見るのが妥当である。長目の前髪と中性的な身体付き、少し行った先の、ここと同じような雑居ビルにこういう綺麗目が接客する店が何軒も入っているから、そこのボーイが仕事着を脱いだらこんな感じか。
「こちらのお店の方ですか」
胃液逆流寸前だと解釈される状況にあったのに、案外クリアな声で彼は言った。
「お帰りのところに申し訳ないのですが、お金はお支払しますので、水を一杯恵んでいただけませんか」
とても正しい言葉遣いであり、呂律も怪しいところはない。目元の赤みは化粧か、それとも生まれつきか。
承は肩掛け鞄の中から、まだ開けていないペットボトルの麦茶を差し出した。
「感謝いたします」
頭を垂れつつ両手で受け取った男は細い指でキャップを取るなり一息に半分ほど飲み下した。
「おかげさまで生き返りました」
「いや返さなくていいよ、お前口付けただろ」
「これは失礼いたしました」
男は細いスラックスの尻ポケットから長財布を取り出した。ヴィットーリアの革財布を開いて、じっと中身をあらためた男は、
「細かいのがありません。どうかお受け取り下さい」
と五千円札を差し出してきた。呆気に取られてから、俄然不快になって「要らないよ、クソガキが」と押し退けて、入口の鍵を確認して踵を返した。ペットボトル一本で五千円? イライラしていたお陰で、下手をすると寝過ごしてしまう自宅最寄り駅にスムーズに帰り着けたことだけは良かったかという気がする。ただ、その日の夕方目を覚ましてスマートフォンで購入した舟券が外れたので、やっぱり貰えるもんは貰っといた方がよかったかなあとも思った。
それから四日後の開店前に、こうして栄雁饅頭と、いくらか判然としないが現金の入っているに違いない封筒を目の前に置かれているわけだ。
真っ当な大人であれば、まあ、饅頭に関しては受け取ってやってもいいが、金は突き返すのが筋というものである。日曜の夜だけでなく、月曜の夕方に買った舟券も外れて二日で一万円負けているので、正直なところ饅頭よりも現金に食指が動きそうな承ではあるのだが、さすがにそれはどうなのかとも思うのだ。
承がいつまで経っても黙っているのが、さすがに気詰まりになったのだろうか、しかし全く心の動きを感じさせない声で、
「お名前を、まだお伺いしておりませんでした」
ナカツルは言った。答えてやる義理もないが、無視するのも意地悪をしているみたいで大人げない。
「ウエノハラコトツグ」
少し珍しい名前であることは自覚している。
「どういう字を書かれるのですか」
承、と書いて「ことつぐ」と読む。おおむね「ショウ」と読まれるし、前の店にいたころ付き合っていた女は承を「ジョー」と呼んだ。
「左様でしたか。僕の名前はこう書きます」
訊いてもいないのに、ナカツルはスマートフォンのメモ帳に打ち込んだ自分の名前を見せた。黒くて強いゴシックで、「中寉了」とあった。その名前を見て承の中に浮かんだ感情に、中寉が気付いたはずもない。
「これで『ナカツルリョウ』と読みます」
寉、という漢字を承は初めて見た。鶴みたいな男だけど鳥ではないから左側だけなのか。
「現在のところは書生紛いのことをして生計を立てている者です。今年二十歳になりました」
「……なんて?」
「二十歳になりました。三月に」
「いや、そうじゃなくて……、いや、二十歳?」
「はい。九隅文科大学の文学部に通っております」
顔写真付きの学生証を、中寉は承に晒した。私学文系の最高峰と言ってもいい大学である。券面に記載された生年月日を見れば、確かにもう成人しているのだった。
「……なに紛いをしてるって?」
「書生です。書生というのは、名士の家に住み込んで雑用をしながら勉強している人のことですね。僕の実家はあまり裕福ではありません。本来なら私立大学に通うなんて夢のまた夢なのですが」
承は、自覚のないうちに、いくつもの疑問符を持て余した顔を中寉に見せてしまっていたのだろう。
「僕は畑村國重先生のお宅で書生紛いのことをしているのです」
どうにか押し止めようとはしたけれど、驚愕は右膝のぴくんとした震えで表現されてしまった。
今でこそ宿木橋のゲイバーで雇われ店主をやっている承であるが、ひとつ前に働いていたのは赤坂の、言うなれば「隠れ家」であった。
雑誌に載るような「隠れ家『的』」な店ではなく、堅牢な門戸を備えた店で、大物とされる芸能人やそうした連中の所属する事務所の幹部、あるいは上場企業の社長会長クラス、そして官僚が密会するための場所。表向きは料亭であり和室ばかりの中、設けられたカウンターで半年という短い期間ではあるが働いていた。
畑村國重はその期間で承の前に座った者の中で最も大物であった。
総理経験者である。かれこれ十五年も前のことで、承は現役時代を実感として知っている訳ではなかったが。
嘘を言っているのではないか、という疑いが承の中に込み上げたことを、中寉は察知したらしかった。
「畑村先生はサー・ウィンストン・チャーチルにかぶれている老人です。バーに行くと、いつだって最初にチャーチル・マティーニをオーダーします。もちろん、ベルモットの瓶を視界の端に入れながら」
まさしくそのオーダーを受けて、馬鹿なじじいだな、と思いながらも、そんなことはおくびにも出さず応じた承に、「君は、若いから知らんだろう」と軽蔑の笑みを浮かべて畑村は言ったのだ。隣にいたのは秘書か、さもなくば、政治家としての後輩か。もちろんチャーチル・スタイルのマティーニぐらい、バーテンダーであれば知らぬ者はいないし、ちょっとでも知的な人間なら「いるはずがないと」想像できそうなものであるが、何を言われようとにこにこ笑って、曖昧に頷くのがそのころの承の仕事であった。
「そして先生は、二杯目からは、延々アイラモルトをハイボールで呑みます。何故だと思われますか?」
理由を、承は知っているつもりだった。
アイラモルトは、端的に言って薬と煙の酒である。そうであることを知らない、あるいは知らない振りをしている者は、その独特のにおいを嗅がされて驚く。満足を得た「先生」は、「これの良さが判らなければウイスキー好きとは言えんよ」などという言葉を皮切りに、もう既に何百回と繰り返したのであろう蘊蓄を傾けていく。その姿を見た承は、いまどきこんなじじいがいるのかあ、と大いに呆れたものだ。このじじいが若いころ「高級」とされ、今では大衆酒の価格にまで地位を落としたウイスキーの瓶と、そういえば体型がそっくりだと思ったこともよく覚えている、……だるま、だ。
「先生は大変肥えていらっしゃいます。春に肝臓がだいぶやられていることが判明しました。まもなく亡くなられます」
本当に、この中寉はあの畑村國重の「書生紛い」なのだ。
「そうなると、僕は書生紛いの暮らしを続けていくことが出来なくなります」
淡々とした声で中寉は言った。
「……その、お前の言う『書生紛い』っていうのは」
思わず遠慮がちに控えめな声を選ばざるを得なくなった承に、
「セックスのお相手をしていました」
中寉は平然と頷いた。
「先生は男色家です。もっと言えば、小児性愛者でいらっしゃいます。僕が先生のお邸に入ったのは十歳のときです。同級生より少し、こどもっぽい顔で、身体も小さかったものですから。僕は西の方で生まれて、当時通っていた小学校が先生のご自宅の近所にありました。登下校のたびに、そのお邸の脇を通るので、恐らく先生は何度も僕をご覧になっていたのでしょうね。ある日、先生の秘書という人から『東京に行ってみたくないか』と誘われました。それ以降、僕は先生の東京の、本来のお住まいである議員宿舎のすぐ近くにあるマンションで暮らしています。先生は毎晩のようにやって来て、老いてろくに使いものにならない物体を僕の肌に擦り付けてお遊びになるのです」
グロテスクな話である。グロテスク過ぎて現実味がないというのは、却ってありがたかった。
「親は」
承自身、意外に思えるぐらい苦い声が溢れた。淡白に、足と尻をある程度落ち着けて生きていたいと思っていることを認めることに躊躇いはなかったが、
「親は、何も言わないのか」
時としてこんな風に、善良な人間の振りをとても上手にしてしまう承だった。あまりに巧みなもので、誰もが芝居とは思わないはずだ。
「はあ、そうですね。『ありがとう』と言われた記憶がありますが、その頃から会っておりませんもので」
平たくて白い中寉の声は、行政書類を握って丸める音に似ていた。何に対しての感謝の言葉であるか、言われた中寉は汲み取ることを拒否している様子である。
「……そんなこと、お前、人に話していいのかよ」
中寉はまるで表情を変えない。
「先生は僕の身体や生活を購入なさったのであって、僕がそれに応じるというのは、ある種の契約ですね。それは成立しています。しかし、僕はそれ以上のお金は受け取っておりません」
それ以上の、とは。
ここで、少しだけ中寉は笑った。この少年めいた二十歳が初めて見せる、明確な感情の伴う表情の変化だった。氷のような顔のつくりなのに、笑うとあどけなさが浮かび上がり、人懐っこく見えた。
「口止め料をお支払いただいたとは思っていませんので。僕は相応の対価を得て、身体をお貸ししているに過ぎないのですから、僕の持つ情報に価値があるのならば、先生はそれを封じるための支払いをなさらなければいけませんでした」
しばらく、承はぼうっとしていた。中寉は罪のなさげな笑みを浮かべているばかりだ。
「無論、僕の側からこのことをべらべら喋るメリットはそれほどありませんし、誰も僕にそんなことを訊こうとはしません。僕からの『お礼』のうちに含まれているとお考えいただけましたら幸いです」
えらい「鶴」を助けてしまった。
いや、本当は助けるなんて言葉には到底足りない。業者が「これ、新商品なんでよかったら」と試飲用にと置いていったペットボトルをそのまま渡してやっただけだから、承は一円だって払っていない。にも関わらず、元総理の酷い秘密を受け取ってしまったのである。
言うまでもなく、承にとっても意味のある情報ではない。中寉が言うように換金出来ればいいのかも知れないが、どう考えたってそれはリスキーである。鼻の穴に東京湾の生臭い水が詰まったような感覚に承は陥った。
「実は、今日ここへ来たのはお礼をしたかったのだけではないのです」
承は目の前の、二十歳という自称に偽りがなければ約十歳年下の男に翻弄されている不愉快さに、また炭酸水のボトルを開ける。
「先ほど申し上げました通り、畑村先生はもうすぐ亡くなられます。具体的に申し上げるならば、まだ報道されてはおりませんが、先週から才知会病院に入院されました。一昨日から意識が戻りません。ですので」
笑いながら人の死ぬ話をする中寉の白い肌の内側に、どんな色の血が流れているのか、承は図りかねた。とても呪わしいものが目の前に座っている感覚だった。
「僕をここで雇っていただけませんでしょうか」
炭酸水のキャップが承の指の隙間から転がり落ちた。訊き返すよりも先に拾い上げたら、「謝礼」と書かれた封筒の中から中寉が、紙幣ではないものを取り出しているところだった。
三折りにされた白い紙だ。
「改めまして、中寉了と申します。お話しました通り接客業をしておりましたが、働いていた『お店』が潰れてしまうこととなりましたので、こちらのお世話になることが出来ましたら有り難く思います」
差し出されたその紙を、いつまでも承が受け取らなかったからだろう、中寉が自ら広げた。
履歴書であった。
「料理は得意です」
訊いてもいないのに、中寉は言った。
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