二〇一九年・山王ティールーム

 堅実な買い方の中寉は当たったり外れたり、いつも穴狙いの承は終盤の一つを除けば全て外れ、しかしどちらも来たときよりは少しだけ財布の中身を増やしてその日最後のレースを終えて、シャトルバスでレース場を後にした。

 承には寄りたい場所があった。さすがに眠いし、家にまっすぐ帰りたいところではあったけれど、せっかく山手線を挟んで反対側まで出てきたのだからと、貧乏根性が顔を出したのだ。バスを降りて、この辺りでは高架を走る地下鉄に乗り、都心へ潜り込んでから環状線に乗り換える。中寉の帰り道の途中までと、全く同じ道筋である。

 二本の路線とも、運よく空席にありつけた。あくびを噛み殺す承の隣で、中寉は座るなり静かに眠りに落ちていた。上下の睫毛がぴったりと重なると、目元の赤みよりも睫毛の長さが目立つ。高架を走る地下鉄の窓から射し込む西日に、ほんの微かに白い眉間にしわを寄せるとき、睫毛の影はずいぶん長く彼の頬に横たわった。少し眠気が遠退くような、もうとうの昔に眠りに落ちて夢を見ているような光景だった。地下区間に入ると、青白いLEDの灯りに照らされた中寉の顔は死人のようにも見えた。目元の赤みが再び目立つようになり、唇の潤いとともに命の存在感を留めていた。

「じゃあ」

 山王駅のホームで電車を降りて、承は言った。承はここで降りて寄り道、中寉は私鉄に乗り換えて、十分も乗れば家である。畑村の住まいを離れ、一人暮らしをしている彼の住所の末尾には「1803」と部屋番号が付されていたが、ずいぶんな高層階に住んでいるのだ。彼が畑村で稼いだ金がどれほどのものであるか窺い知れる。

「はい。お気を付けて」

 一眠り、いや二眠りして目が覚めたのか、しゃっきりと背筋を伸ばして、行儀のいいお辞儀をしたあと、彼は承が背中を向けてもこちらを向いていたようだ。ふと思ってもうしばらく歩いてから振り返ると、同じ場所にまだいて、またぺこりと頭を下げた。

 承の目的地は北口を出たところにある。

 山王駅は中央口と南口は開けているが、北口は寂れている。バスが何台か発着する小規模なターミナルがある以外は、古ぼけた立ち食い蕎麦屋や安いビジネスホテル、あとは風俗店の並ぶ通りがあるぐらい。とはいえ、承はそういった店を目的に山王までやって来たのではない。

 学生の頃から、北口を降りて少し歩いたところにある楽器屋に通っている。白髪混じりの口髭を蓄えたいかめしい男が主人をやっていて、狭い店内にはいつも趣味のいいレコードが掛かっている店だ。承はギターの弦やピックは毎回そこで仕入れていて、明日辺り久し振りに弾こうかなあ、なんてことをぼんやりと、今朝寝る前に考えていたのである。

 中央口から回って行くことも出来た。中寉を「邪魔」と思うことはボートレース場で鉢合わせてから今までとうとう一度もなかったが、同じ改札を出るのは、なんだか向こうを見送るみたいでしたくなかった。

 地下通路はいつもがらんとしている。北口にあるものを考えればそれも無理からぬことか。中央口などこの時間、まっすぐ歩くことも難しいぐらいの雑踏だろうけれど、右の改札方面には一人の姿もなく、左を見れば、トイレがあるだけで、そちらも無人である。少し考えてから、承は左へ足を向けた。

 強いものではないが、尿意を催していた。考えてみると、何年も前から山王駅北口を利用していたのに、そのトイレに入るのはこれが初めてのことだ。ぼんやりと男子トイレに入ってすぐの壁を折れて。

 異様な雰囲気にたじろいだ。

 廊下には一人もいなかったのに、トイレの中だけやたらと混んでいる。それほど新しいトイレではないが、清掃は行き届いていて、排泄物の臭いが鼻を衝くということはない。しかし不自然な人口密度の高さのせいか、蒸し暑い気がする。

 承は宿木橋で働いている。そうでなくとも、ある程度の教養があれば、そういう場所があるということは知っていて当然だ、……発展場。

 動線から逸れて、ひとけの少ない場所のトイレがそうした場所になっているケースが少なからずあるという。例えばターミナル駅にありながら、滅多に人の来ないエリア……。

 さっと踵を返して出ることも考えないではなかった。いや、どう考えてもそうするのが妥当であったはずだ。しかるに、これは承に限ったことではなかろうけれど、男というものは自分が恐怖を感じたとしても、それを表出させることには強い抵抗を感じるものなのだ。意地と言うには障子紙より薄く、プライドと呼ぶには埃より軽いものであるが。

 承はこのときも、そうしたもののせいで判断を誤った。表情を変えないまま、五つあるうち一つだけ空いている右隅の小便器へまっすぐに向かう。左に並んだ四人はあまりに不自然だった。……男の小便がそんなに時間が掛かるものか。案の定、承が本来の目的のために便器の前に立ち、ジーンズのジッパーを下ろした途端、左隣の男の顔がこちらを向いた。

 こういうとき、見せるような真似をしては絶対にいけないと知っている。見せればすなわち応諾のサインであって、何をされるか判らないと、ミツルが以前に教えてくれたのだ。

「あんたノンケなんだから気を付けなさいよう、あんたみたいにそこそこ顔が良くて背ぇ高くて身体しっかりしてるのはモテるんだから」

 そこそこ……、そこそこか、そうか……。

「そういうところはねえ、基本的にはみんな、マナーを守って遊んでるわね。でも、たまにいるのよ。勝手の判らない子が迷い込むと、食べちゃうような奴が」

 食べちゃう、とは。

「そういう子って緊張してるでしょ? 気が弱いわけよ。だからちょっと優しくされるとコロッといっちゃうのよねえ。そうやって油断させておいて、……要は無理矢理やっちゃうのよね。昔可哀想な子がいたのを知ってるわ、去年までウチで働いてた子。その子、当時高校生だったのに、そういう無法者に酷い目に遭わされたって、泣きながら話してくれたわ」

 お前もそういうところに行ったことがあるのか、と承は訊いてみたが、「まさか」と心外そうに彼は首を振った。

「あたしはこう見えて綺麗好きだから、シャワーも浴びてない男に触るなんて真っ平ごめんよ」

 ついでに彼は宿木橋の近くでそういった場になっているトイレを全部教えてくれた。うっかり承が足を踏み入れることのないように。

 その中に、この駅は出てこなかった。単に少し離れているから必要ないと思われたのだろう。もうちょっと教えてくれと言っていれば、こんな場に踏み入ることはしなかっただろう。

 緊張のせいか、渋ってなかなか出てこようとしない小便に苦闘する後ろ姿は左の四人と大差ないはずである。自意識というものは一度発生してしまうと自律神経にまで影響を及ぼすものであるらしい。

 そうこうしているうちに、全く想定していなかった事態が起きた。

 承と隣の便器の間に、ずいと体を捩じ込んできた存在があったのである。

 承がもうちょっと気の細い男であったら、それこそ短く悲鳴を上げていたかもしれないが、その男の顔を見て、紛れもなく承の口から「あっ」と声は漏れた。

「何をなさっているんですか」

 辛うじて聴き取れるぐらいのヴォリュームが、左耳の鼓膜に馴染む。

 中寉だった。

「お前……」

 陰茎を便器に向けて構えたままの格好で硬直する承の左腕を掴んで、彼は怒った顔でいる。基本的には無表情、あとは接客用の愛想笑いと、今日幾度か見た控えめな笑顔、というバリエーションしかなかった中寉が、細い眉で鋭い線を描いていた。

「こちらへ」

「おい」

「こ、ち、ら、へ」

 有無を言わせぬ物言いに抗うすべは承にはなかった。慌てて自身をボクサーブリーフの中にしまって、細い腕に引っ張られていく。呆気に取られているのは承だけではない。他の男たちも、便器から顔だけこちらを向け、ぽかんと口を開けて見ている。体格では承のほうが圧倒的に秀でているのに、抵抗を試みることも出来ないまま個室に押し込まれ、鍵を掛けられた。

「なぜマスターがここにいらっしゃるのです」

 相変わらず押し殺した声で中寉は問う。トイレに来る理由など、一つしかないに決まっている、……承にとっては。

 トイレにいた他の男たちにとっては寧ろ、そんな理由でここに来る方がどうかしているのだ。

 中寉も「そっち側」なのだ。

 今さらのように承は気付いた。

 このトイレは、言ってしまえば中寉の縄張りなのだ。

「僕は後ろを向いています。おしっこでしたら、早く済ませてしまってください」

 和式の便器の左で壁を向いて彼は言った。ここは三つある個室のうちの、真ん中の一つ。左からも右からも、ただならぬ気配が仕切り壁を通り抜けて届いてくる。動転しながらではあるが、風運急を告げている自分の膀胱からの訴えに屈する形で、承は足元の便器に向かって本来の「目的」を果たす以外に選択肢は思い付かなかった。萎縮した性器から便器に向かって尿を注いでいく音が止むのを、中寉はじっと壁に向かって目を閉じて待っている。

 承がスニーカーの底でレバーを踏んだところで、中寉が向き直った。身を翻して個室の鍵を開けようとした承の手を掴んで首を振る。思いきり背伸びをして、「しばらくは、ここにいてください」と相変わらず怒った声で承の耳元に囁く。

「マスターはご存じなかったのですか、ここがどういう性質の場所であるかを」

 うん、と小さく頷く。

 僅かではあるが、中寉の表情が緩んだように思われた。彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、メモアプリを起動して、すさまじい早さで文字を打ち込んで承に見せた。

 ここはマスターにとっては大変危険な場所です。

 理解した、と言う代わりに一つ頷く。画面を承に見せながら、中寉は親指を動かし続ける。

 先程はマスターを見てお守りしなければならないと思い咄嗟にここへお連れしました。僕はここの常連です。

 承にとって中寉了とは、確かに見目は麗しいものの、真面目で控えめな、童顔の二十歳である。同性愛者であると意識することさえ滅多にないし、どんな職場であれ肩を並べて働いている限り、性のベクトルがコミュニケーションの障害になるはずもない。仮に、承が男性同性愛者に対して自分の経験に基づく苦手意識を持っていたとしても。

 中寉の親指は更に言葉を紡ぐ。

 僕のことを知っている人も多くいるはずです。そう考えるとマスターが僕の知り合いであるという事実が露見することは好ましいとは言えません。

 中寉の顔を見て、もう一度、承は頷いた。

 中寉のしていることについてとやかく言うつもりはない。勤務時間外である、どこで何をしようと勝手だ。

 一方で、遊び場であるらしいこの場所において、こんな「保護者」がいると思われることは、中寉にとっては都合が悪い。そのことを、承は理解できた。

 ですから、心苦しいのですがマスターはもうしばらくここでお付き合いください。最も穏当と思われる方法で、マスターをここから逃がします。僕のことを

 ここで、初めてほんの僅かばかり、中寉の親指が動きを止めた。それは、じっと見ている承でなければ気付けなかったほどの余白だったし、ひょっとしたら中寉も無意識であったかもしれない。

 嫌いにならないで頂けたら、と思います。

 中寉はそこまで承に読ませてから、スマートフォンをサコッシュに仕舞う。

 続けて彼が、自身のベルトに手を掛けた。いつも落ち着いている男にしてはやや慌ただしく緩めると、ジーンズのボタンを外す。何をする気だ、という声をすんでのところで承は呑み込んだ。

 グレーのボクサーブリーフのウエストゴムに迷いなく手を掛けるのが見えたから、承はとにかく慌てて天井を見上げた。灰色の天井に、男たちが遊ぶときに吐き出す声や吐息が染み込んでいることを思い、途方に暮れるほかない。

 中寉の魂胆は判った。左右の個室も、個室の外も、こちらを観察しているのだ。どうやらここではちょっとした有名人であるらしい中寉が初対面とおぼしき男であるところの承をを連れ込んで物音一つ立てずに出て行くのは不自然である。

 だからと言って、手段を選ばなさ過ぎではないのか。

 狭い個室である。承は俄に熱を帯び始めた中寉の背中と固い個室の扉に挟まれながら、呆然と天井を見ているしか出来ない。中寉はボクサーブリーフの中から取り出した自身の性器を刺激する音を立てることで、ここでそういった行為が行われていることをことさら周囲にアピールするつもりであるらしかった。

 中寉に羞恥心がないとは思わない。寧ろ、彼が呼吸の数を増やし、衣擦れの音を立てれば立てるほど、申し訳ない、という気持ちばかりが承の中で嵩み、重さを増していく。

 ……自分の持ち合わせている情報を統合すれば、ここがそういう場所かもしれないと懸念を抱くことだって出来ただろうに。自分がここに足を踏み入れることがなければ、中寉にこんな屈辱的なことをさせることだってせずに済んだのに。

「あ……、あ……っ、ん、うぅ……」

 中寉の唇から、成人男性のものとは思えないほどの濡れ艶を帯びた声が溢れ始めている。いつも整頓され過ぎた言葉を淡々と、平均より少し早いスピードで紡ぐ舌が唇が喉が、そんな声を発するところを耳にすることになるとは思いもよらなかった。右手で自身のものを刺激しながら、彼は左手を自分の口中に突っ込んでいる。声に混じって、唾液の立てる音まで響かせている。承は両手をだらんと下げて、ただ天井を見上げているだけだった。「嫌いにならないで」と中寉が親指で紡いだ言葉が、天井にそのまま書かれている気がした。

 別に嫌いにはなんないけどさ、でも、困ったなあ、と思うばかりだ。

 もう、ギターの弦を買いに行くのは今度でいいや、と決めるまでそれほど時間は掛からなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る