泉に捧ぐ――愛と汚辱のうちに

 ボロアパートの錆びた扉を開けた瞬間、懐かしい匂いにのまれた。黄昏時の淡い蜜色の光が殺風景な部屋を侵食している。我が家に帰ってくるのは何日ぶりだろう。何も考えず風呂場へ直行した。

 白装束を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。冷たかった水が徐々に暖かくなっていくのを感じて湯で髪を湿らせた。湯気が空間を満たしていく。

 タイルの敷き詰められた壁に頭を預ける。鏡に写り込んだ女は涙を流して苦笑していた。すっかり肉の落ちてしまった身体も、その顔の青白さも。全て無惨だった。どうしたらこんなひどい状態の女が出来上がるのだろう、と思う。

 誰かに縋り付いて泣くことができたら良かったのに。ここにある感情を吐き出せたら良かったのに。

 声をあげて泣くことさえできない。今は感情が枯れてしまった。さらさらと湯が胸から太腿にかけて流れるのを放置して鏡をただ見つめる。

 睨めば今、ここで私は死ぬことができる。初めて剃刀を首筋に当てた時の気持ちが記憶の彼方から込み上がってきた。首筋がつっと金属の冷たさに晒された気がした。


 結局、私はいつも人を不幸にさせる。唯一の肉親も親友も。どうでも良かった赤の他人も。

 人を助けよう、と思ったことがそもそもの間違いだったかもしれない。一生、私は人を呪って生きる運命だったのかもしれない。


 なんて馬鹿だったんだろう——

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る