告白
米の炊ける匂いがしていた。あの匂いは好きではない......吐き気がほんの少し込み上げてくるからだ。
茉莉はぼんやりと目を開け天井を見つめていた。知らない天井だ。
そうだ、依子は。泉依子は......
昨日の出来事が頭の中を高速で走り抜けていく。あの時信者の叫ぶ声で茉莉は目を覚ましたのだ。その熱気とオレンジ色に染まった視界に覆われ揉みあう信者をのけて施設から脱出した。月と依子に会うことはできなかったが出口あたりで白狛と燕と合流できた。
そして3人で奥多摩から池袋を目指したのだった。
無事に着くことができたのか。状況をやっと把握でき、ほっとする。
身体を起こし目を擦る。
「起きたかい、茉莉」
白衣の女性が駆け寄って目線を合わし微笑んだ。胸に垂らした三つ編みが揺れる。
知っている。この人のことを。
「鳳子さん、でしたっけ?話は聞いていましてよ」
噂は聞いていた。能力のあるヤブ医者。通り名か本名か定かではない鳳子という名。
「気分はどうだ」
「まぁまぁ、ですわ。怪我はしていませんもの」
「なら良かった」
そう言って鳳子が立ち上がった。白狛や小野田仁丸の転がった布団を跨いで布のかかった凸に手をやる。その指先が白い布を引いた。
「.......なっ」
「寝起きからすまない。この人について知っていることが有ったら」
そこに有ったのは生首だった。それも茉莉のよく知った女性の顔。
冷たい汗が流れ落ちていく。
「よ.....りこちゃん......?」
あの健康的な依子の顔とは似ても似つかなかったが確かにこれは依子であった。
間違いなく茉莉たちの親友の泉依子だった。
「どういうことなの」
「月が......実は月が先に帰ってきたのだが。月はこの首を抱えて」
「月が......?」
生首に近づき頬に触れてみる。冷たいその感触に鳥肌が立つ。
依子が、死んでいる?
依子は、死んだ?
「依子ちゃん、嘘でしょう......」
依子の頭へそっと近づき抱きしめる。何かの間違いだ、と信じたかった。『みのりさん』が生まれるのを依子はずっと待っていたのだ。腹を撫でてあの優しい目で笑いかけていたのだ。
『あの人が残してくれた宝物よ。施設から出たら安全な場所で産んで絶対に幸せにするの。あなたたちに出会って、やっとそう思うことができた.......』
それなのに、それなのに......!なぜこんな姿になって......
深呼吸をして鳳子に向き直る。
「依子ちゃんは......依子ちゃんは、私たちの親友で協力者だったわ」
鳳子がハッと息をのんだ。
「月がどうして......」
依子の髪の毛に顔をうずめる。パサパサのツヤのない髪の毛に手をやると、3人で過ごした日々がせり上がってきてしまうのだった。
依子がいなければあの辛い日々を越えることなんてできなかったのに。どうして。何故。
「茉莉、それは私のせいだ」
「月っ!」
振り返ると障子を両手で開けた月の姿があった。
「月、あなたのせいって一体」
無表情の月が畳に膝をつき、茉莉へ頭を下げた。肩がピクリと震えているのを見て茉莉は月の身体を支えた。月は俯いてぐっと唇を噛んでいたのだ。
「あの夜、私はふと起きたんだ。そしたらベッドに依子ちゃんがいなかった。そこで例の死体が置かれている部屋に行ったら」
月が苦しそうに息を吸い上げた。
「曼陀羅と知らない少年と依子ちゃんがいて。依子ちゃんが縛られていた。きっと依子ちゃんは《影》にされるところだったんだと思う」
「依子ちゃんが《影》に?」
頭を縦に振った月が言葉を継ぐ。
「助けようとした時にはもう遅くて。その少年が依子ちゃんを《影》に変えたんだ。逃げ出す二人を睨んだのに倒すこともできなかった。そして私は依子ちゃんを......」
月は口元を抑え身体を縮めた。その身は濃い負の感情を纏っている。触ることさえ憚られるような。
「依子ちゃんを殺したの......!」
吐き出される息が震えていた。月は長く長く息を吐いて茉莉を見た。
自分の知っている月はこんな目をしていただろうか。何にも怯え逃げ出してしまうような小動物の目を。茉莉は肩に触れていた手をそっと指へ下ろす。
「茉莉......依子ちゃんは殺して欲しいと言っていた。でも、そんなの言い訳にしかならないだろう?殺したのは私の判断で、《影》になろうとも生かせば良かったんだ」
「月。あなた」
「人間に戻す方法だって見つかったかもしれない。依子ちゃんは幸せになれたかもしれない。それなのに私はその場の判断で依子ちゃんの首を切った」
「......月」
「この不平等に与えられる能力でね。依子ちゃんを殺したんだよ!そうだよ、夢に出てくるあいつらの言っている通りじゃないか。私は薄汚い能力者なんだ。親友だなんて戯言だった!」
「そうじゃないでしょう!!」
勢いで月の頬をはたく。手のひらが冷水に浴びせられたかのような感覚を覚えた。目に写り込んだ月の呆気に取られた顔。
手に残ったじん、とした痛みが虚しかった。
「やっぱりそうだよな、私が悪かったんだ」
「違う、違う!親友だなんて戯言......って。私たちの友情は偽物なんかじゃなかった!」
月には何も届いていないようだった。ただ空虚な心を言葉だけがすり抜けていく。
「親友って何?結局私たちは依子ちゃんを利用してただけじゃないか」
「確かに利用はしたわ。でもっ」
月は寂しげに笑って立ち上がった。
「鳳子さん、私帰ります」
「帰るって...... まだしっかり治ったわけじゃないのに」
診療所にいた全員が月のことを見た。月は振り向かず汚れたスニーカーを履く。
「月!」
追う気にはなれなかった。一番傷ついているのは月なのに。傷を抉るようなことはしたくなかった。
茉莉はしゃがみこんで両手で顔を覆った。ぬるい涙が流れては顎から滴り落ちていく。どこにこの感情を持っていけばいいのかわからなかった。
「依子ちゃん、依子ちゃん依子ちゃん依子ちゃん......よりこちゃん」
ふと背に暖かい感触を感じた。それが鳳子の手だと認識するのに少し時間がかかった。
何も言わず鳳子は背をさすってくれた。心の堰が崩れていく。
茉莉は途切れ途切れに声をあげて泣いた。
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