依る女
泉依子はよく笑う女性だった。笑う、と言っても豪快にバカ笑いをするわけではない。いつもそこにいて気づくと微笑んでいる。
班長、というだけあって曼陀羅への信仰は誰よりも強いようにみえた。毎日の朝礼では倒れそうにゆらめきながら幻覚を追っていた。子を抱えているというのに蒸し暑い工場で何時間も立ち続けた。立派にできたクマは痛々しい。
それを私たちが心配して曼陀羅に呪いの言葉を吐くと、最初は咎めていた泉は耳をかすようになった。
「教祖様が私たちのことを本当に思っているならこんな工場で働かせるわけがないと思うの」
「これは試練よ。試練は受けないと」
「これはタダ働きでしょう!」
「見返りは求めてはいけないの」
「これがお腹の子への愛だっていうの?」
「.......わ.......からない」
腹を抱えしゃがみ込む泉の睫毛は濡れていた。雫は薄汚れた白装束に落ちては広がっていく。
午前2時。数少ないベッドでの時間だった。月明かりが泉の割れた陶器のような肌を照らし出す。
「辛い.......よ」
その時、初めて泉は本音を発したのだ。長時間の労働、睡眠不足、未だ続くつわり、少なすぎる食事、制限された生活.......限界に達していたようだった。必死に祈る泉の姿は今にも崩れそうだった。
「祈愛会はおかしいと思わない?」
「どこが........?」
「全ておかしいよ、ここ。逃げたいと思わない?」
茉莉と二人でそう言えば、泉の心が揺らがないはずがなかった。泉が両手で顔をおおって何度も頷く。その泉を二人で抱きしめてしまえば上書きは完成だった。
「逃げたい。もう働きたくない。この子を無事に産みたい」
玖班班長、泉依子はようやく幻覚から解かれたのだ。
私は咽び泣く泉の背を撫でながら耳元に口を寄せた。
「私たちも逃げようと思っているの。協力、してくれない?そして隠していることも全て話してほしい。そうすれば私たちの隠し事も全て話すから」
泉の背中側に顔を出した茉莉がぎょっとする。後半は勝手に口から滑り出した言葉だった。私は本気で能力者であることを明かそうとしている—
不思議でたまらなかった。そんなこと必要ないというのに。
泉が荒く息を吸い上げた。
「協力する。するわ。あなたたちが誰であろうと。私は親友だと言ってくれたあなたたちを信じてるから」
声を詰まらせながら泉はそう言った。涙で濡れた顔はぐしゃぐしゃだが、やけにきっぱりしている。覚悟がついたのだろう。積まれたベッドで寝息を立てる班員の顔を見やってから泉はさらに声をひそめる。
「この子のことを言えば、良い?あなたたちになら話せる気がする」
「辛いことは話さないでも良いけれど......」
「いや、もう向かい合えるかもしれない」
「私には学生時代に結婚した夫がいたの。誰よりも私のことを理解してくれた。私は彼が大好きだった」
絞り出すようにしてその声を出す。泉は胸のあたりを掴んで苦しそうに息を吸った。
「私たちはどうしても子供が欲しかった。でも私は子供を宿すことが難しいそういう体質だったの。だから大金をかけて不妊治療をして.......ようやくこの子を孕った」
茉莉と私は息をつめて話を聞いていた。少しでも口を挟めば場の糸が切れてしまう.......そんな雰囲気が渦巻いていたのだ。
「夫は病院に行っていた私を出迎えに来ていたの。車の中を見たら夫がいなかった。見たら車の裏側に黒い気持ちの悪い生き物がいて.......夫を食っていたの。私は何もできなかった。声も出なかった。足からあの化け物は口へ入れていて血が垂れていた。夫を助ける前に自分が助かることを優先したの、私は」
泉が身を抱きしめて震えた。その傍らの茉莉は私と目を合わせ息をのむ。
黒い気持ちの悪い生き物。まさか—
「その化け物、どんな形をしていたの?」
「生き物、というかあんなもの見たことがなかったの。直視できなかったけど目がいっぱいついていてぬるぬるした足がいくつかついていた」
「《影》だ」
茉莉がそう口に出す。確信を得ているようだった。暗がりの中でも茉莉の目が厳しいものになったことがわかる。
「か......げ?」
茉莉と視線を通わす。二人で頷く。
「この世に幽霊や不思議な能力を持つ人間がいることを信じられる?」
ここまできたら泉に明かした方がいいだろう、と二人で判断したのだった。どうせ利用するのならば、泉を救う。
「えぇ。あの化け物を見た日からずっとそんな感じよ」
「実は私たち二人は能力者と呼ばれる人間なんだ。依子ちゃんの旦那さんは幽霊なようなものに食われたのだと思う。その化け物を倒すために私たちは祈愛会に来た」
泉が瞬きをして曖昧に声を漏らす。反応に困る、というような顔だ。
私は立ち上がってカーテンに目を向けた。集中してカーテンを睨む。その瞬間、カーテンが真ん中から裂けていった。糸を引いて裂け、真っ二つになったカーテンに泉は目を丸くした。信じられない、と呟きカーテンに触れる。
「こんなふうに.......化け物をいつも倒している」
艶のなくなった髪の毛を泉はくしゃくしゃと揉んだ。
「夢じゃ、ないのね.......私は、あなたたちを信じていい?」
「良い。私たちは親友だから」
それを聞くと泉は息を吐き出して自分に言い聞かせるように何度も頷いた。まだ呼吸は整っていないらしく肩が上がったり下がったりを繰り返している。私たち二人で背をさすりながら言葉を続ける。
「教祖様、いや曼陀羅翔太はその幽霊を作り出しているみたいなの。祈愛会にはその秘密が隠されているはず。依子ちゃんは班長でしょう?出入りできる部屋が多いと思うの。だから私たちの味方になってくれない?」
厳密には幽霊ではないし《影》を作っているのは曼陀羅だと言い切れなかった。でもそれでいい。泉の怒りの矛先をわかりやすく曼陀羅に向ければ良いのだった。
「二人の仲間になればあの化け物はいなくなる?」
「えぇ」
ただし将来的には、の話。
「私、あなたたちの仲間になる。教祖様のことは少し疑っていたこともあったの。だから真相を自分で確かめたい。ただ、一つ約束をさせて」
「はい」
「私と一緒に逃げてほしい。できることなら他の信者も.......」
こっくりと首を縦に振る。信者の犠牲は厭わないこと、と言われたがせめて泉は助けたかった。約束は、守る。
「じゃあ決まり。依子ちゃん、お願いします」
「任せて。絶対に情報を得てくるわ」
かくして泉依子は私たちの仲間になったのだった。
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